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あい

ぼくは、どの物語にも「愛」があると考えています。
だからぼくの演出する作品にも、新和座が皆さんにご覧いただく作品にも愛があると考えています。

▼人の愛

どの物語にも愛がある、それは、登場人物たちの行動には必ず何かの思いがあり、それは極論を言えば全て『愛』につながると考えています。

たとえ、恋愛に関する物語でなくても・・・登場人物には愛があります。
親子愛、兄弟愛、師弟愛、夫婦愛・・・もちろん恋愛もそうですし、何かを思うことの根本には愛があるのではないか、とぼくは考えています。

物語の中には悲劇と言われるものがあります。
新和座でもギリシア悲劇を取り上げる事がありますし、ぼくが演出してきた作品の中でもギリシア悲劇には思い入れがあります。
「悲劇」と言われる物語でも、登場人物には「愛」があると感じています。

王女メディアという物語がギリシア悲劇にはあります。
古代ギリシアのエウリピデスという人が書いた物語です。詳細は割愛しますが、この物語では、主人公のメディアが自分が産んだ子を殺してしまいます。
何故か。台本に書いてあることだけを見ますと、「夫が不倫をしたから」ということが上げられます。
もちろん、復讐のために殺すという方法をとったとも解釈できますし、「子供たちの為に殺した」という解釈もできます。

解釈は様々ですが…ぼくは後者の解釈をとっています。
それは、自分の夫が新しい土地でその土地の王の娘と結婚したわけですから、自分の子が迫害されないとも限らない。追放される自分の手の届かないところにいるよりかは殺してしまえばいい。
と考えたのではないかという解釈をしています。

また、このメディアは、夫の新しい妻も殺しています。夫を苦しめる為、と台本には書いてありますし、メディアの気持ちとしてはそういうことが大部分を占めていたと思います。

しかし、メディアに愛はなかったのでしょうか。
ぼくは、「ある」と感じています。
愛が深いからこそ、裏切られた事に絶望し、気性もあって子殺しまでした。
これに「愛」がなければ・・・物語がこんなに長い間伝わってこなかったのではないかとも考えています。

▼天の愛

ぼくはよく、このnoteの記事でも宗教のような事を書きますが・・・皆さんに特定の宗教について知らせようとか読んでもらおうとは思っていません。
また、ぼく自身、神社や寺院に行く事は非常に好きですし、自分は仏教徒だと思っていますが、その教義を書くつもりもありません。

しかし、物語には、天(神様とか仏様とか)の愛も含まれていると感じています。

それは、洋の東西を問わず、文化や風習、習慣には必ず、宗教的な考え方や価値観が反映されていますし、日本の物語にしても、その物語の中の暮らしであったとして、「前提」としての価値観や捉え方についてある種の宗教的な(お祭りだとかクリスマスだとかも含めて)影響があると考えています。

▼例えば

例えば、ウィリアム・シェイクスピアの作品の一つ「ロミオとジュリエット」では神父役が出てきます。
この神父はジュリエットやロミオの普段の悩みも聞き、解決策を与えていたのではないかと推察できる行も出てきています。
なにしろ、ロミオもジュリエットも結婚に際して「相談」するのは神父を挙げていますし、謀をする際や窮地に陥った時にも神父に相談をもちかたけり、助けを求めたりしています。

単に仲が良いから、というわけではなく、中世ヨーロッパの世界観として、キリスト教とは切っても切り離せない、風習や考え方があったのだと考えています。

こうした事も含めて―――もちろん現代の物語では、こうした生活に常に密接している、ということはあまりないかもしれませんが、物語の中には生活・暮らしに根付いたモノの考え方、捉え方、価値観にはどこか、その世界の天の愛があるのではないか、と考えています。

▼愛がなければ

話を「人の愛」に戻しましょう。
物語の中に登場する人物に愛がなければ、ぼくは、それを読んだり、見ている人にはその物語は―――たとえ伝わったとしても―――残らないと思っています。

それはサブテキストの記事でも書きましたが、台本に書いてあることだけでは演じられませんし、作品を創ることは不可能であります。
また、公演本番で演じたとしてもそこに「登場人物の愛」が無ければ、セリフも仕草も空虚なモノになってしまうのではないでしょうか。

冒頭にも書きましたが、登場人物のセリフや行動・仕草・動作には必ず、思いも理由も存在します。
登場人物が無意識にやっている行動だとしても、そこには必ず理由も気持ちもあるはずなのです。
そして、その根底には”人”や”モノ”に対しての愛情があるはずです。

愛情があるはず、ぼくが言いきるのは理由があります。
普段生活している中でも、色々な行動をとります。もちろん、人間ですから、―――結果、良い行動もあれば、悪い行動もあります。
しかし、誰でも、自分自身への愛も含めて、自分や誰かの為に行動する事で説明がつくと今、現在感じているからです。

愛は自分にも他人にも向けられます。
そして、その愛のカタチは様々です。
サブテキストを作る際に、セリフとセリフの間、ト書きとト書きの間、セリフとト書きの間に…サブテキストを作ったり読み取ったりするわけですが…そこに登場人物の「愛」という観念が入るのと入らないのとでは大きな違いがあると考えています。

▼「への」と「の」

また、役や作品と向き合う場合に、
・役への愛

・役の愛
はどちらも必要だと考えています。

演じる役は、俳優である自分とは違う考え、価値観、行動をとります、当然のことながら。
しかし、そこに俳優である自分ができないからと言って、舞台上で「やれない」ということはできません。
役の行動、セリフを全て肯定して演じなければいけません。
それがたとえ、自分の信念に反することであっても。
だからこそ、役を好きになり、役への愛がなければ演じることはできないと考えています。

また、同時にそれらの行動に対する「役の愛」を見落とすと、役が舞台上で生きていない、死んだ状態になってしまうのではないでしょうか。
先ほども書きましたが、「役の愛」がないと、お客様にご覧いただいても…お客様に届く作品にはならないような気がしています。

この二つを同時に成立させ、且つ、混同させない事は非常に重要であるとぼくは考えています。

▼演出者としての愛

演出者として、俳優さんと同じように「作品に対する愛」と「作品の愛」を混同することなく持ち、それをイメージとして、俳優さんやスタッフに伝えていく事が大切だと考えています。

昨今、コロナ禍でエンターテインメントの業界も他業界と同様に大打撃を受けています。
そうした中で、愛がないモノを観たいとはぼく個人は思いません。

作品の愛は、登場人物の愛もそうですし、作者が考える愛のカタチを自分なりに仮説を立て、登場人物の行動からどのような関係性があり、その中にどのような愛が存在するのか考えていく必要があります。

ぼくも自分で演出していく中でこの「愛」という感情がどこか当たり前になってしまっていて忘れる事が多いです。
しかしながら、どのような形にしても、「愛」の説明がつかないところには、役の関係やシーンに矛盾が出てくることが多いように感じています。

さらに演出者として、作品の中に愛を見つける事ができなければ、「心」を表現する舞台において、お客様にご覧いただけたとしても・・・お客様の記憶に残ることはないのではないか、と感じています。

登場人物の行動、作品には必ず愛がある。
その愛を想像し、創造することが舞台の難しいところでもあり、テーマの一つではないかと考えています。

舞台演出家の武藤と申します。お気に召しましたら、サポートのほど、よろしくお願いいたします!