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残心

ぼくがお芝居を創る上に大事にしていることの一つに「残心」というものがあります。

この言葉は演劇で使われる言葉ではなく、武道や茶道で特に用いられる言葉です。

▼残心とは・・・

Wikipediaによると

残心(ざんしん)とは日本の武道および芸道において用いられる言葉。残身や残芯と書くこともある。文字通り解釈すると、心が途切れないという意味。意識すること、とくに技を終えた後、力を緩めたりくつろいでいながらも注意を払っている状態を示す。また技と同時に終わって忘れてしまうのではなく、余韻を残すといった日本の美学や禅と関連する概念でもある。

とあります。

ぼくは舞台演出家としてこの”残心”をお芝居でも取り入れているつもりです。
稽古中は「後処理」と言ってみたり、「後の動作」と言ってみたりしますが…この「残心」は非常に大事なものだと考えています。

▼大事にしている理由

ぼくは舞台作品を創る上において、「その役が舞台上で生きる」ということを念頭において創るようにしています。

つまり、舞台上で動く登場人物は台本に特別な指示がない限り生き続けていると考えています。

台本上のセリフを喋り終わったからと言ってその人物は生き続けていますし、何か動作をした後に「役者」としての顔がのぞくことはけしてあってはならないと考えています。

ですので、セリフを言い終わったあと、動いたあと…次の動作に入る一瞬でも常に”心”はあると考えています。
無意識に動いているものだとしても「役」としての心がそこになければ生きているとは言えないと考えています。

実生活の中でも、人は常に何かを感じ、何かを思っているものではないでしょうか。
ぼーっとしていたとしても、心を完全に無にすることは難しいと考えています。限りなく無に近づけることはできても、そこには心で何かを感じているからこそ人間なのだと考えています。

こうした考えからぼくは「役」が心を残すことを俳優さんがしてくれるといいなと感じていて、稽古でも作品でも大事にしています。

▼カタチにでる

ぼくは学生時代剣道をやっていたので、この残心という言葉にはなじみがあります。
ぼくの稽古場や講座の中で「残心」と言っても通じない事があります。

別の言葉で言えば「気を抜かない」という事がしっくりくるような気がしています。

「役」も「役者」が創り、動かしています。
ただ、舞台公演の作品内で登場人物を演じている「役者」が「役者の顔」をのぞかせるのはぼくは非常に嫌いです。

たとえ、台本上にないことが起ったとしても、セリフを忘れても、動きの段取りを間違っても…登場人物、役として対応するべきだと考えています。

人間は不測の事態が起こると、心が乱れる事があります。
その心の乱れ、動揺は、自分が予想も準備をしていなかった時に起こることが多いのではないでしょうか。
その心の乱れははやり態度に出てしまいます。
隠しているつもりでも、焦った表情が出てきたり、目が泳いだり…不安になったり。

舞台公演に不測の事態はつきものです。
何故なら、誰も完璧な人間はいないわけですから、どんなに稽古を重ねてきても起こるものだと考えています。

その時に、いかに「役」として生きているかが大事になってくると考えています。「役」を演じている時に台本に書いていない、稽古でもやっていない事が起きた時…「役」はどううごくのか…それは「役者」の心ではなく、「役」の心がカタチに出ると考えています。

もちろん、俳優さんも人間ですから心を二つもつことや、心を完全に切り替えるというのは不可能です。
しかし、限りなく役の心に近づけることは訓練することで可能です。
それにはイメージや技術、経験も訓練も必要ですが、心の切り替えは可能だと考えています。

少し話が逸れましたが…こうした心の変化は動作や表情、声に現れてしまいます。
つまり、”自分のセリフ”を言い終わって、気を抜いていると、その心が動作、カタチに表れてしまうと考えています。

▼作品全体でも

舞台作品全体でも”残心”ということを意識して取り組んでいます。

これは、物語の最後、最終シーンをお客様にどのようにご覧いただくか設計する時もそうですが、実際に稽古を行っている時に考える事があります。

「果たして、このシーン、この最終シーン、ラストでぼくらの心を伝える事ができているのか」

という自問自答です。

最終シーンは、文字通り、お客様がご覧いただく最後のシーンです。
物語の最後であり、このシーンをご覧いただき、お客様は色々な思いを感じていただけるものだと考えています。

こちらの記事でも書きましたが、ぼくは物語を創る時に、最終シーンの設計・イメージから始めます。

俳優さんやスタッフとの共同作業ですから、「目標」をはっきりさせるためにも最終シーンが定まっていなければうまい具合には進みません。
極論を言えば、「行きつくところはここだ」ということを明確にすることで、役作り、道具、灯り、音、衣装…などの作業の目標が定まりやすいと考えています。
もし、最終シーンが決まっていなかったり、ブレてしまっては…物語全体もなにやらわけのわからないものになってしまいます。

こうしたことからも最終シーンを最初にイメージ、俳優さんやスタッフと共有するのですが…
やはり、稽古中に不安になることが多いです。

そうした時に、演出目標を再度確認するのはもちろんなのですが、「残心」という言葉を思い出すようにしています。

▼演出の残心

舞台演出家として、作品の最後にどう心を残すか…
稽古中に不安になる時はもう一度プランを見直し、俳優さんの段取り、灯り、音、装置、道具、衣装などなど…
再度色々なことを考えます。

もちろん、稽古が進んでいるわけですから、大幅には変更しません。
変更する時は、期間・内容・方法をよく考えてから俳優さんにもスタッフにも相談します。

ただ。
残心を考えた時に、自分自身が舞台上に心を残せているか、カタチにしているかという確認は不安になった時に毎回行います。

つまり、舞台上で演出家は何もできません。
基本的には俳優さんが舞台に立ち、灯りや道具、音、衣装、装置といったものがぼくの変わりに表現をしてくれます。

演出家という職種は(兼業の場合はそうではありませんが)舞台公演中は何もできないのです。

ですので、ぼくの残心を、舞台に心を残してくれるのは、俳優さんたちであり、他のスタッフなわけです。

万万が一、ぼくが稽古中に「作品に残心が感じられない」と思ってしまったとしたら…その時はぼくのイメージの伝え方がどこかおかしいことになっているわけです。

何故ならば、舞台の最終シーンで俳優さんが動いてくれた末に、心がない、カタチになっていないということになれば…それは、稽古中のぼくの心が伝わっていないわけであり、ぼく自身、稽古場にて気を抜いている証拠だからです。

とはいえ、最終シーンに何かを感じたら、手を入れないわけではありません。
色々な方法、施策は行ってきます。
ただ、はやり、舞台演出家自身のある種の美学と異なる感覚があったとしたら、やはり、稽古中のイメージの伝え方、オーダー内容に間違いがあるのではないかと考えています。

▼美しい所作

俳優さんにも、他のスタッフにもまた演出家自身の残心を舞台に残し、お客様に何かを感じていただくことをぼくは大事にしていると書きました。

そこには、美しい所作―――もちろん、役によって見た目は異なると思いますが―――が存在すると考えています。

相手のある場合において卑怯でない、驕らない、高ぶらない事や試合う(しあう)相手がある事に感謝する。どんな相手でも相手があって初めて技術の向上が出来ることや相手から自身が学べたり初心に帰る事など、相互扶助であるという認識を常に忘れない心の緊張でもある。相手を尊重する思いやる事でもある。生活の中では、襖や障子を閉め忘れたり乱暴に扱ったり、また技術職の徒弟で後片付けなどを怠ると「残心がない」や「残心が出来ていない」といって躾けとして用いられる言葉でもある。仕舞いを「きちっと」する事でもある。ちなみに「躾け」とは「美しい」所作が「身」につく事を表した和製漢字である。

上記はWikipediaの引用ですが…
稽古場では俳優さん同士、俳優さんとスタッフ、スタッフ同士が稽古の中でも常に残心を意識することで、技術向上になると考えていますし、実際のお芝居の中でも、セリフのやり取りではなく、心(きっかけ)のやり取りをする、残心を意識することが「その役として舞台上で生きる」ことだと考えています。

また舞台公演においては、観ていただけるお客様がいらっしゃるからこその公演です。
そこに残心を意識し、心がなければ…ぼくたちは躾ができていない、ただの木偶となってしまうと考えています。

残心。
非常に難しいことだと感じていますが…ぼくはこの残心を大切にこれからも創り続けたいのです。





舞台演出家の武藤と申します。お気に召しましたら、サポートのほど、よろしくお願いいたします!