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若いうちの苦労は買ってでもしろ?!

『若いうちの苦労は買ってでもせよ』
という言葉がある。この意味は

若い時の苦労は買ってでもせよとは、若い時にする苦労は必ず貴重な経験となって将来役立つものだから、求めてでもするほうがよいということ。
若い頃の苦労は自分を鍛え、必ず成長に繋がる。苦労を経験せず楽に立ちまわれば、将来自分のためにはならないという意味。
「苦労」は「辛労」「難儀」「辛抱」とも。
「若い時の苦労は買ってでもしろ」「若い時の苦労は買うて(こうて)でもせよ」ともいう。(故事ことわざ辞典より引用

ということらしい。

ぼくはこの言葉を言われるのが嫌だった。若い時はそれが顕著だった。
だから、今、ぼくの教え子や後輩には言わないようにしているし、どうしても言う必要がある場合に、ぼくはこの記事に書いているような自分の考えを必ず言うようにしている。

▼半分賛成で半分反対

”若いうちの苦労は買ってでもせよ”ということを言われるのが本当に嫌だった。ただ、この言葉の内容について半分賛成で半分反対なのだ。

まず、賛成についてだが・・・
人間、苦労というか努力というか工夫というか…何か壁にぶつからなければ、自分自身である程度解決できるになるにはやっぱり「知恵」と「経験」が必要になってくる。

だから、「若いうち」つまり・・・何か物事を始めた時はなんでもチャレンジし、どんどん壁にぶち当たり、自分なりの工夫を行っていかなければ「知恵」も「経験」も身につかない。

だからこそ、「若いうち」には色々とチャレンジし、失敗し、嫌な思いをたくさんし、自分なりの方法や理論を確立するのには『苦労』は必要だ、と考えている。

また、苦労をすることで、自分なりの危機管理が身につくだろうし、仕事や物事に対して力の加減・配分ができるようになってくると考えている。

不肖ぼくが今、色々な仕事をさせてもらっているのも、試行してきた結果だと思うし、ささやかながらではあるが、ぼくなりの理論が出来てきている。だから、”若いうちの苦労は買ってでもせよ”の必要だし、半分は賛成なのだ。

逆に反対の半分は、というと…「なんでお前如きが言うんだよ」という人に言われることなのだ。

▼この言葉を言われるのが嫌になった原因

これはシステムエンジニアとして働らき始めた時の話だ。
当時の小さい会社のジョウシと飲みに行った時、さんざんこの言葉を言われたのだ。おそらく2時間以上、「武藤くんには苦労が足りない」と言われ続けたと思う。
その時からこの言葉自体にあまり良い印象を持たなくなった。

ぼくは高校を出てすぐに働き始めた。もちろん芝居は高校の時からずっと続けていたし、働き始めた頃は養成所から事務所に入れてもらう事ができて、曲がりなりにも少しは芝居の仕事もしていた時期だった。

そのシステム系の仕事をする前は鉄骨現場で働いていたり、タクシーやハイヤーの運転手をしていた。
芝居をするのが第一義であって、反面、お金が稼げるところで働きたいということでシステム系の仕事についたのだ。

だから、そのジョウシからしてみれば「苦労していないヤツ」と思われていたのかもしれないし、現に、システムの仕事を始めたばかりのぼくはミスも多かったし、新人も新人、ド新人だった。

ただ。ぼくはぼくなりに一生懸命生きていたし、足りないところはたくさんあったが、工夫や苦労はしているつもりだった。
ぼくなりのピンチも越えてきたと思っている。
無論、「ぼくは苦労しています」なんて言ってもいないし、顔に書いているわけでもない。

もちろん、そのジョウシから見れば、高卒で業界経験もないペーペーの新人が苦労をしているとは思っていなかったのだろう。
たとえ思っていても、たいした苦労ではないだろう、という感覚があったのではないだろうか。

だから、飲みの席で延々と「若いうちの苦労は買ってでもしろって知っているか」から始まり、「若いうちは苦労をしろ」と語っていたのだろう。
当時の話の詳細まで覚えているわけではないが、「武藤くんに足りないモノは苦労だね、苦労」とグダグダと語っていたのは覚えている。

今でこそ、まぁまぁそこそこわかるが…
当時は、「うるせえ」くらいに思っていたし、その飲み会の帰りにめちゃくちゃくだをまいたのを今でも覚えている。

その後、何週間か・・・仕事場でもしつこいくらいに「苦労しているか?」とか聞いてきていた。
ぼくは別に揉める気はなかったし、技術は未熟だったので「はい、頑張ります」とだけ答えていた。

そしてぼくが仕事上でつまる度、経験がないことにつまづく度に、「これが苦労だ、わかるか」と言ってきていた。
その都度、「はい、勉強になります」とは答えていた。

しかし、ぼくの心の中では煮えたぎっていた。
煮え湯を飲まされているような感覚があったのではないだろうか。

そう。反対の理由がここにあるのだ。
「お前がいうんじゃねーよ」
という気持ちが強いからなのだ。
苦労なんて言うのは人によって感覚が違うし、種類も違う、大きさや長さだって違うのだ。

たとえ上司や上役、先輩だとしても、他人がおいそれと「苦労は買ってでもしろ」などということはしてはいけないのではないか、と感じている。

▼しかし、内容はある言葉

しかしながら、”若いうちの苦労は買ってでもせよ”というのは、ぼくが印象が悪いと感じている言葉であるだけで、本当の意味は、冒頭で引用したように素晴らしい言葉なのだ。

だから、上司や上役、先輩がアドバイスの一環として「自分の苦労」を交えて話すのであれば、とても良い事だと思うし、その先輩が「知恵」や「経験」を持っていたらなおさら後輩は聞くだろう。

ぼくの経験だけだが、新人だからといって「苦労」をしていないという思い込みや「君には苦労が必要だ」と間違っても言ってはならないと思う。

もちろん、このぼくも教え子や後輩の考え方などを見た時に「経験が足りないな」とか「苦労が足りないな」と”思う”ことはある。
ただ、ジョウシのように「君に必要なのは苦労だ」ということはない。

思うことはあっても言う事はしないと心に決めている。
何故ならば、その後輩や教え子の事を全て知っているわけではないし、「仕事に対する苦労」だとしても、ぼくがしていない経験をしているかもしれないし、ぼくがしらない「苦労」をしているかもしれないからだ。

▼苦労と一言で言っても・・・

『苦労』と一言で言っても色々な苦労がある。
仕事の苦労、人間関係の苦労、お金の苦労、趣味の苦労、勉強の苦労などなど…

また、自分が辛い、苦労だと思ったことが他人にとっては苦労だと感じなかったり、その逆だってある。

更には、人は生まれてきてから今までどんな経験をしているか・・・なんてその人にしか分からないのだ。

だから一口に「苦労」でくくるのは難しいのではないだろうか。

また、人はそれぞれ能力が違う。
生まれ持った能力もあるし、後天的に得た能力・技術もある。
だからこそ、他人が一概に決めた「苦労」がその人の経験にはなるかもしれないが、同じ成果をあげることなんてけしてないと思っている。

もし、同じ苦労をして、人間全員が同じ成果をあげたとしたら・・・
気持ち悪いのではないだろうか。
人はそれぞれ違うのだから、同じ経験をしても、違う結果になるものだから。

▼苦労は買ってでも・・・

だから、ぼくは「若いうちの苦労は買ってでもせよ」が半分賛成で半分反対なのだ。

つまり、何かを始めようと思った時に、年齢に関係なく、大なり小なり苦労はするものだ。

ぼく自身も、モノを書き始めたのは、30代も後半からだ。
音響編集を勉強し始めたのは30代に入ってからだ。

やり始めた時は、試行し、苦労し、工夫していた。
今でこそお金も頂戴しているので、「カタチになった」と思いたいが、まだまだ未完の部分もある。
今も新しいプロジェクトをしようとする時には試行し、工夫を嫌でもする。

そうなのだ。
何かをしている限り、苦労はしていくものだと思っている。
それを若いうちにしていれば、もちろん、自信の理論が早くから進化していくのは間違いない。

ただ、この『若いうちの苦労は買ってでもせよ』は自分が、自分の能力や限界を良く知って、自分の生きる目標に合わせて「買って苦労」することで、『知恵』となり『経験』となっていくように感じている。

もちろん。
ぼくの苦労が足りているとは今でも思っていない。
ただ、他人にぼくの苦労にとやかく言われたくないというのを・・・20年以上前のジョウシの「苦労」の話から思い出した。

苦労は人に用意されるものでもなく、ましては他人に「しろ」などと言われるものでなく、自分で進んで取り入れていくものなのではないかと考えている。

舞台演出家の武藤と申します。お気に召しましたら、サポートのほど、よろしくお願いいたします!