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はっぴーはろうぃん🎃

2020年10月31日、ハロウィンだ。

ぼくの世代はおそらくこの「ハロウィン」については馴染みが薄いのではないかと感じている。

さらに言えば、ぼくはこの「ハロウィン」に関して、数年前までしっくりこなかった。
ただ、今は「ハロウィン」はお祭りとして楽しもうという気分になっている。

▼そもそもハロウィンは・・・

ハロウィンとはそもそもなんなのか。
それを改めて調べてみた。

ハロウィン、あるいはハロウィーンとは、毎年10月31日に行われる、古代ケルト人が起源と考えられている祭のことである。現代では特にアメリカ合衆国で民間行事として定着し、祝祭本来の宗教的な意味合いはほとんどなくなっている。カボチャの中身をくりぬいて「ジャック・オー・ランタン」を作って飾ったり、子どもたちが魔女やお化けに仮装して近くの家々を訪れてお菓子をもらったりする風習などがある。
キリスト教の祭ではない。ハロウィンに対しては、本来、キリスト教にとっては異教徒の祭りであることから、キリスト教教会においては、容認から否定まで様々な見解がある。
Wikipediaより

細かいことはもちろんあるだろうけれども、特にアメリカで行われている民間行事という認識だ。

先ほども述べたが・・・ぼくはこのハロウィンに関してしっくり来ていないことがあった。

▼なんのための祭りなんだ?!

ハロウィンに限ったことではないが、バレンタインもクリスマスも…ぼくは嫌いだった。
正確に言えば、このイベントに合わせてカップルがイチャついたり、バカ騒ぎしたりするのが嫌いなのだ。

例えばバレンタイン。
本命チョコレートなど…学生時代も今ももらったことはない。
そりゃあ、もちろん、この歳ですから、お付き合いしていた方がいる時はもらったことはあるけれども、『告白』というイベントが伴ったものはない。

例えばクリスマス。
ぼくが通っていた幼稚園はキリスト教の教会が運営していたので、クリスマスはイエス様のお誕生であり、それを祝うものであると今でも思っている。
だから、ちちくりあう為にクリスマスを利用するという―――愛を確かめるとかではなく、どこかクリスマスに家族や一人で過ごすのがかっこ悪いという風潮が大嫌いだ。

そして、ハロウィン。
本来、収穫祭や日本のお盆的な意味合いが強いはずなのに、仮装をして酒を飲んで街で自動車をひっくり返すというような大騒ぎに疑問を感じている。

こうした外国の習慣はいったい何のために行われているのか、ということが不思議だったのだ。

ただ、バレンタインもクリスマスもハロウィンに対しても考え方がだいぶ変わってきた。

▼ハロウィンにはじめて触れた時

ぼくは20歳を過ぎても、この10月の月末、ハロウィンを意識することはあまりないまま生きてきた。

30代の頃、専門学校の先生をやった時に初めてハロウィン、仮装に触れた。
ぼくの講座の時に丁度ハロウィンが重なり、生徒たちが仮装をして教室に居たからだ。

その時の衝撃は今でも覚えている。
声優さんを育成する学科だったのもあって、好きなアニメのコスプレなどを基本に女子高生が居たり、おばけがいたり、亡霊が居たり…
およそ、芝居をしようという稽古場の様子ではない。
ただ、そこは学校の教室であり、彼ら彼女たちに「サボろう」という意識は見えなかった。

少し話はズレるが―――ぼくは元来怒ったり怒鳴ったりすることが非常に苦手というか嫌いなのだが―――当時学校では『怖い先生』と認識されていたのだ。特に稽古態度、持ち物、恰好などにはうるさく言ってきていたつもりだった。

その授業にコスプレをしている人間がほぼ全員なのだ。

この時あたりから…ぼくの認識が変わったのだ。

▼日本は色々な文化を取り入れてきた

もともと日本の土壌にバレンタインやクリスマス、ハロウィンと言った風習はなかった。
それがここまでイベントとして認識されている。

もっと言えば、お正月には初詣に行き、結婚式でもチャペルで行う場合、神前、仏式、人前と様々な種類があり、エイプリルフールを楽しみ、お盆を過ごし、夏祭りに出かけ・・・ハロウィンを行い、文化の日を過ごし、勤労感謝の日を過ごし、クリスマスを迎え、大晦日に大掃除を行う…

色々な文化が日本は取り入れている。
演劇にしても、映画にしても、物語、歌、音楽・・・こうした文化も他国の文化の影響を受けたり、取り込んだりして進化してきているのだと感じている。

もちろん、ぼくの小さい頃にハロウィンの習慣がなかったので、”慣れない”というのは否めないが・・・逆にこのハロウィンについて、受け入れない理由が見当たらないのだ。

ぼくはバレンタインも(僻み根性はあるが)男女が愛を語らうのは素敵だと思うし、クリスマスもイエス様のお誕生日であり、家族や恋人と過ごすのはとっても良い事だと思っている。
ハロウィンだけ、別だ、受け入れられぬ、という理由が見当たらなかったのだ。

▼明確にハロウィンを受け入れた時

6年くらいまえになる。
ハロウィンを明確に受け入れた時があった。
ぼくがハロウィンパーティーに参加したことがあった。

それは劇団で催され、劇団員の松井ともみの伝手で会場を借りてもらい、劇団員は仮装をし、飲み食いをした時だ。

今でも覚えているが、非常に楽しかったのを覚えている。

その時にわかったことがあるのだ。
イベントで楽しむことは良い事だが、羽目を外しすぎてはいけないということなのだ。
先ほども書いたが、『イベントに合わせてカップルがイチャついたり、バカ騒ぎしたりする』のが嫌いなのだ。
もちろん、恋人同士が一緒に過ごすのは良い。良くないけど、良い。
僻みを無くして言えば、「その時の為の恋人」でなければ良いと思っている。

ただ、『バカ騒ぎ』に関して言えば、これは本当に嫌なのだ。
何かにかこつけて飲んで騒いで、他人に迷惑をかけること自体が受け付けないのだ。
もちろん、飲んだり食べたりすれば騒ぎもする。
ただ、節度を持って、羽目を外しすぎない、一緒に居る人たち誰もが愉快になれるということがあればそれは「祭り」として成立するのではないかと考えているのだ。

▼日本の祭り

日本の祭りでも酒を飲み、食べ物を食べ、大いに騒ぐときはある。
そうした時でも、極力、参加している人全てが不愉快になるような事はしないという不文律があるのではないだろうか。

現に日本の祭りを見ていても、車をひっくり返すことはないし、大騒ぎして、警察が出る騒動になることはあまり見ないし、聞かない。
少なくともぼくの知っている地域の祭りではそんなことはない。

どこか節度があり、ルールを守り、参加している人すべてがウキウキするのが日本の祭りであるとぼくは感じている。

これがバレンタインであろうとクリスマスであろうとハロウィンであろうと。ルールと節度を守り、参加している人がウキウキできるものであれば、イベント・祭りとしてよいのではないかと今では感じている。

▼収穫祭

日本の収穫祭で言えば、地域ごとにあるだろうけれども、「日本の収穫祭」としてぼくが認識しているのは”勤労感謝の日”だ。

この日、皇居では新嘗祭という宮中行事が行われている。
これは天皇陛下がその年に収穫された新穀などを神様に供えて感謝の奉告をし、お供えを神様からの賜り物として召し上がると聞いている。

ハロウィンのように仮装などの行事はないが、それでも、この新嘗祭はぼくら日本人にとって大事ではないかと考えている。

食べ物は勝手にできない。
誰かが種をまき、または生きている動物、魚などが居て、自然が大きく関係し、採り、獲る人がいて、運ぶ人がいて、保管する人もいて・・・作る人もいて・・・たくさんの人がいて初めてぼくらが口にすることができる。

そして、自然がなければ、こうした食べ物は出来ない。

自然が神様と関係するかどうかはぼくにはうまく説明できないが、それでも自然とともに生きることは神様と共に生きていることだとぼくは考えている。

だからこそ、こうした収穫祭、新嘗祭も日本人の一人してしっかりと意識していきたい。

▼忘れない事、迎え入れる事

先ほども書いたが、日本は色々な文化を取り入れてきた。
だから、クリスマスを祝ってその後、初詣をする習慣がある。

クリスマスという欧米の習慣も日本なりに進化させておこない、日本の初詣という習慣も行う。

だから、ハロウィンも楽しみ、新嘗祭も忘れないことがぼくは大事ではないかと考えている。

ただ、日本に合わないような…節度がなく、ルールも守れないのはただの野合、何の意味も持たないと思う。
さらには本家のハロウィンだって、人に迷惑をかけたり必要以上に騒いだりすることはないはずだ。

”祭り”はウキウキするものだとぼくは思っている。
だからこそ、節度とルールを守って、できるだけ大勢の人がウキウキできるように来年以降もハロウィンを楽しもうと思っている。

▼画像

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五年前のハロウィンの時に撮ったもの。

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今日、劇団員の松井が加工してくれたもの。
髪の毛が増えたようで☆嬉しい♪

舞台演出家の武藤と申します。お気に召しましたら、サポートのほど、よろしくお願いいたします!