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欲。心を動かし続ける。

ぼくは以前の記事にも書いたけれども・・・欲深い。

▼ぼくの欲。

お金持ちになりたい。
モテたい。
眠たい。
いい女とセックスがしたい。
めちゃくちゃ美味しいモノが食べたい。
人気者になりたい。
モテたい。
カッコよくなりたい。
人に良く思われたい。
歌をうまく歌いたい。
モテたい。
などなど…挙げればキリがない。

人は生きていく上で、嘘も吐けば、「悪いなぁ」と思いながらルールを破ることもある。セックスもする。汚い事もすれば、けして褒められない事だってする。

人が生きて行く中で。
笑いの時もあるだろうし、悲しみが心を支配する時もあるだろうし。怒る時ももちろんあるし、泣く時もあるだろうし。
他の人から見て、きらびやかに見てもらえる時もあるだろうし、醜さを見せてしまう時もある…
様々だ。

しかし、笑いがあり、悲しみがあり…きらびやかな時も醜い時も。
これらがあるからこそ、”人間の営み”を感じるのではないだろうか。
全てがきれいなモノの世界はきっと美しいんだろうけれども。
そういう世界でぼくは心を動かしつづける自信はない。

▼テネシー・ウィリアムズという作家

ぼくの好きな劇作家の一人にテネシー・ウィリアムズという人物がいる。
彼の作品は色々な所で上演されている。
今は流行らない作風かもしれない。台本を見る限り、ダンスも殺陣もアクションもない。入れる部分がない。
何しろ…物語全体の印象が暗い。今の流行りの演劇から言えば…程遠い作品であると感じる。

ぼくはこの作家の作品がとても好きだ。何故ならば、彼の本には、生き方が描かれているように感じるからだ。
アメリカ人の。人間の。
けして綺麗な思いだけではない、汚い部分、欲。
登場人物がその欲と理性の間に悩む姿が描かれているのだ。

さらに。
テネシー・ウィリアムズの作品には言葉の大事さ、鋭さ、痛み、苦しみ、楽しみ、嬉しさが凝縮されていているようにも感じる。
もちろん、ぼくは翻訳本を読むわけだから、翻訳者の先生のお力に依るものが大きいとは思う。しかし、その言葉によって、傷ついたり、やさぐれたり、喜んだり、気付いたりする人々が描かれている。

誰が良い、悪いと分けられない、実社会の縮図が詰まっているように感じるのだ。最初にも書いたけれども…人間は色々な営みを行う。行動をする。良いことも悪いことも。彼の作品にはその全てが入っていると思う。

▼欲と理性。

欲望のままに生きる事は醜いことなのだろうか。
理性的に生きるのは美しいことなのだろうか。

正直に言えば、ぼくにはわからない。
一般には欲を抑えて理性的に生きる事が良いとされる。
もちろん、人を傷つけたいからといって傷つけるのは許されることではないし、罰せられる。
そういう欲にかられたら、多くの人は一生懸命その欲を抑えるはずだ。

しかし。
「人気者になりたい」という欲はけして悪い事ではない。
もちろん、目標としてこれを設定する場合と結果として「人気者」になる場合とその過程は違うだろうけれども、この欲自体は悪いことはでない。

だから、こうした欲を抑える事はない。
ただ。こうした欲がある時に思い通りに行かない事が多い。そうした時に、欲求不満状態に陥り、ぼくは悩み、苦しむ事が多い。

別に抑える必要がない欲に対して「理性」を持ってくるのもどこかしっくりこない。
「人気者になれない」から「ぼくはどうせ人気者になれないんだ」というどこかあきらめのような「理性」であれば…ぼくの性に合わない。

欲や欲望は人間の汚い部分、醜い部分ももちろんあると思う。
そうした部分を人間は併せ持っているからこそ、ぼくは「美しい」と感じる。

▼醜いか美しいか

さっきも書いたが…
世の中のすべてが美しいモノだけになってしまったら…ぼくは心を動かしつづける自信はない。
きっと、美しいモノだけになったら最初は感動するとは思う。
この世の中全てが良く見え、この世の中全てに強く心を動かされるとは思う。

しかし、そこで終わってしまうと思う。
心は再び動かないような気がする。
もちろん、もっときれいな、美しいモノを見たり感じたりすれば再度動くのかもしれないが…
今のこの世界での感動に比べたらごくごく小さいものになってしまうのではないだろうか。

想像の世界の事をいつまでも書いても仕方ない。
現実の世界を考えると・・・ぼくは欲望はけして醜いだけではないと思っている。
もちろん他者を蹴落としたり、傷つけたり、尊敬を向けられない、保身だけを考える・・・そういったことは醜い部分だとは思う。
しかし、それはけして無くならない。

人は気を付けていても、悪い言葉を喋る。
そうした悪い言葉を喋るにしても、それは悪人だけが喋るんじゃない。
普通の人間が喋る。だかこそ、普通の人が傷つく。何の変哲もない、普通の人が喋り、他者に影響を与えることがある。
それは「欲」なのか「理性」なのかわからないが‥‥これこそが人間世界そのものであり、言った人間も反省することもあれば、聞いた人間も許すことがある、心を動かしつづける事ができるのだ。

ぼくは…美しい心を持ちたいと思いながらも、醜い心を無くすことができないでいる。
「こうなりたい」と思っても、その欲に向かう時に…他の欲が邪魔をする時もあるのだ。
だから‥‥完全に醜い心を無くすことはできない。

昔であれば、「もっともっと考えなければ」と思っていたと思う。
しかし、今。
この醜い心も併せ持っている事が人間なのではないだろうか、と感じている。もちろん、醜い心をなるべくださない、ゼロに近づける努力はしていく。しかし、その醜い心から失敗した行動をとったとしても、もう一度心を動かせば良いと考えている。

人間は醜さも汚さも美しさも楽しさも持っている。
ぼくもそうでありたい。
テネシー・ウィリアムズの本に登場する人間は・・・欲望や汚さ、願望・醜さ、美しさ、儚さ、強さをそれぞれ持っている。そして、それを言葉に表す。
彼らは心を動かしつづけている人々だからだ。
そう、現実の人間と同じように。

不肖ぼくも言葉を使って仕事をしている人間だ。だからこそ美しい言葉を使い、美しい世界を描いていきたい。
しかし、欲望、醜さ、いやらしさ、儚さ、美しさなどなどを知らずに言葉を喋っても、それはホンモノじゃない気がする。
だからこそ、心を動かしつづけ、悩み苦しみ、書き、喋っていきたい。

舞台演出家の武藤と申します。お気に召しましたら、サポートのほど、よろしくお願いいたします!