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【短編小説】ある晴れた日のソラ:前編

3,575文字/目安7分


 突然ですまない、僕の話を聞いてくれ。

 ありふれた話かもしれない。つまらない話かもしれない。だけど僕にとっては紛れもなく特別なことなんだ。まだ自分の中で整理しきれていないからうまく伝えられるかわからないけど、とにかく聞いてくれ。

 えっと、あれは確か……ひと月、いやふた月か。たぶんふた月ほど前のことだ。ふた月か。もうそんなに経つのか。しかしまだふた月と言うべきか。ふた月前、僕の物語は始まった。一瞬のことのようで、けれど遠い昔のようでもある。夢みたいな話でもあり、それが必然だったかのように現実味をおびた話でもある。おぼろげだが鮮明だ。ひと月の瞬間に星の数ほどの体験をした、そう感じる。

 そういえば、今日はとてもいい天気だ。まだまだ暑い日が続くが、風は涼しく、雲が一斉にどこかへ逃げたみたいな快晴で、最高に気持ちがよい。これから話すその日の空も同じように晴れていた。本当によく晴れた日だった。起きた途端に目が覚めるような清々しい、そんな朝だ。僕は運命を感じずにはいられない出会いをすることになる。

 出会いというよりはむしろハプニングで、もしかしたらアクシデントと言ったほうが正解かもしれない。それは僕が大学に向かっている時に起こった。

 僕にはこれといった取り柄もないが、それでも人生においてやりたいことの一つ二つを頭の中に描くくらいのことはしていた。その日の講義は何気なく履修したものだが、なかなか興味深くて面白いものだった。そのためほんの一時も欠かしたくなかったのだが、あろうことか僕はその大事な講義の日に大寝坊してしまった。しかもその日はレポートの提出日であり、単位に大きく影響するであろうものだった。確か教授はその講義中以外での提出は一切認めないと言っていた。なんということだ。せっかくここまで優等生でやってきたのに、すべて台なしだ。これでは普段講義に一切出ないくせに、こういう時だけ友人の力でなんとかするクソみたいな学生以下になってしまう。これは大学で唯一付き合いのある奴のことだ。すまない。この時ばかりは朝が早い講義を取った自分を恨んだ。そしてクソ学生も恨んだ。違うんだ教授、僕は決してサボろうだなんて思っていない。

 寝癖も直さず、電車を急かし、キャンパスまでの道を走った。目覚めた時は絶望的だったが、講義が終わる直前にどうにか辿り着けるくらいには挽回できた。

 それでもやはり余裕はない。身を裂く思いで体を進めるも、僕の足と心臓はとうに限界に達していた。はやる気持ちを膝が笑う。普段運動などしないから、こういう時にいきなり動くと大変つらい。それでも僕は走った。走らなければ大事な友が自分のために殺されてしまう。
 そして路地の曲がり角。見事なコーナリングをかました。その瞬間、僕は何かとぶつかってしまったんだ。

 注意力が足りなかった。そもそも注意していなかった。わけが分からないまま僕はバランスを崩した。体が回転し、足はもつれ、そうして自分は尻もちをつこうとしているらしい。目線が沈んでいくのが分かった。この時、時間が妙にゆっくり進んでいるように感じたのを覚えている。その中で、僕は見た。

 ぶつかった勢いで向こうも体が半回転したようで、こちらを向いた。それは女性だった。持っていたカゴから勢いよくリンゴが飛び出すのが見えた。そしてその人はとてつもなく美人だった。長い黒髪が揺れていた。完璧なまでに整った顔立ち、その上完全なほど自分好み。何が起こったかまだ理解できていないのか、その顔はあっけにとられたような表情を映していた。それすらも完成されたみたいに美しい。僕はコマ送りの感覚の中、その人に見惚れていた。そして全身に衝撃が走るのを感じた。

 どれだけ経ったか分からない。綺麗に尻もちをついた僕はふとした拍子に我に返った。
 大学まで急いでいて、必死になって走って、角を曲がったら何かにぶつかって、それは女性で、すごい美人で、しかも好みで、最後に尻もちをついた。

 さらに気がつくとその女性も尻もちをついていて、持っていたカゴを落とし、入っていたリンゴは地面にばらまかれていた。リンゴをカゴに入れて歩く美人なんて現実を疑ったが、こんなすばらしい美人からの激突を頂戴できること自体夢のようなものだから、たとえ夢でも受け入れることにした。ただ、女性にとっては僕から突撃をお見舞いされたわけであり、被害者である。

 そこまで考えてようやく行動に移した。一言謝り申し上げ、すぐさまリンゴを拾い集めた。女性はまだ身動き一つしていなかった。この時自分では冷静だと思っていたのだが、ちっとも冷静ではなかった。何を思ったのか、中途半端に自己紹介を始めた。自分は大学生で、講義に遅れているのだ、とね。そんな場合でないとすぐ考え直し、すみませんと謝った。

 ここで女性がようやく動きを見せたんだ。いえと返事をし、髪をさっと整え、それからお怪我はありませんかと言った。

 今になって思えばこれも衝撃だよ。ぶつかったのは僕で、その人が尻もちをついたのも僕のせいで、リンゴをぶちまけたのだって僕が原因だ。
 怒っていいところを、こちらの身を案じてきたんだぜ。軽い舌打ちの後こちらを睨みつけ、そそくさとリンゴを集めて去って行くものだと思うんだ。

 僕はただ必死だったと思う。息を整えるのも忘れていた。回らない口でとにかく謝り、とにかくへこへこしていた。その度に女性は「いえいえ」とか、「大丈夫です」とか、そういう言葉で返してくれた。とても柔らかい物腰であった。勢いはあったものの、正面からの衝突ではなく肩どうしが当たっただけであったため、事態はそこまで大きくならなかったようだ。
 そして、その女性は「急いでいるのではありませんか」と言った。僕は「いえ」と短く答えた。講義のことなんてどうでもよくなっていた。

 女性は尻もちをついたままで、僕はその前でしゃがんでいた。お互い気づいて立ち上がり、そして笑った。僕はリンゴを入れたカゴを差し出した。女性は「ありがとう」と言った。ふと、僕の額に視線を泳がせ、そしてそれを僕の手の辺りで止めた。なんだ、と思った。

 女性はカゴを腕にかけ、肩に下げていたカバンを探り始めた。リンゴは地面にばらまかれたがカバンはなんともなく、よく無事だったものだと感心した。その人はハンカチを取り出すと、「手、擦りむいていますよ。どうぞ使ってください。すごい汗ですしね」と僕に差し出した。

 汗はともかく、見ると確かに擦りむいていたが、たいしたことではなかった。僕はこのくらいなんてことないと遠慮したが、向こうも譲らない。何度か押したり引いたりを繰り返し、最後は僕が折れることになった。

 その後いくつかやり取りをしたはずだが、よく覚えていない。どのようにして別れたのかももはや不明である。ただ右手のハンカチだけが確かなものとして存在している。僕はとにかく舞い上がっていたように思う。その女性の雰囲気、仕草、表情、話し方、すべてに惹かれた。気がつけば僕は彼女に惚れていたのだ。当然、講義には間に合わなかった。

 僕は彼女のことで頭がいっぱいになった。常にあの時の映像が頭の中で流れた。講義中でも、食事中でも、シャワーを浴びている時でも、酔っ払っても、寝ぼけていても、あげく夢の中でも、いつも彼女のことを考えた。ぼんやりと宙を見ていたのではない。しっかりと彼女を見据えていたのだ。

 そんなだから、生活に支障が出ないわけがない。講義の教室を間違え、道も間違え、レポートは白紙で、お茶をこぼし、忘れ物も多くなった。不意に笑い出すものだから周囲には気持ち悪がられた。前触れもなく涙が流れることもあった。月夜に身を寄せ、星に手を伸ばす日々。目は虚ろで、よだれを垂らし、指先などは痙攣していた。

 その時は平常だと思っていたが、なるほどこれは正気ではない。いろいろな人から病院を勧められたのはなぜだったのか。今こうして思い返すと理由がよく分かる。

 暇さえあれば考え、暇がなくとも考え、というよりは彼女のことで忙しかった。常に彼女に思いを馳せた。それが僕の唯一の救いとなり、日常となり、暮らしとなった。
 そうやって日々を過ごした。そして、一つの使命感が芽生えた。

 このハンカチを彼女に返さなければならない。

 僕の指紋ひとかけらも残すのは失礼だから、丁寧に洗い、クリーニングに出し、抗菌のポリエチレン袋に三重に入れて保管してある。手放すのは心苦しいが、これは僕のけじめだ。きちんと返して、その時のお礼を伝えたい。だから彼女にまた会わなければならない。会ってもう一度、言葉を交わしたい。あの時の衝撃をまた感じたい。もう一度彼女に会いたい。できれば触りたい。

 そんなことを僕はいつまでも考えていた。


後編

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