カオスな創作

 ここ最近啓発や応援など、雑記らしからぬことを書いている。今回もその傾向が強いのだが、やはり雑記だ。実質神主の創作論のまとめのようなものだし、引用が割と長い。

東方の創作

東方はみんなクリエイター

ZUN:
 結構、この話(作り手とファンの距離感)で一番ごちゃごちゃしているのは東方ですよ。世界一ごちゃごちゃしているんじゃないかな。
 「作っている」とか「遊んでいる」とかのようなジャンルがない。だから「あそこに来ている人たちはみんな参加者だ」みたいなことになっていると。
 やっぱりゲームと遊ぶこと自体が僕は「クリエイティブじゃない」とは思わない。ゲームを遊んで、なにかいろんな感情が起こる。実際に絵を描かなかったとしても、なにか感情が起こっている人はもうクリエイティブな感じになっている。
 それをどうアウトプットするかだけなので、今だったら「プレイしているだけ」も実況動画とかで一応クリエイティブになるから。別にわざわざ絵を描かなくたって、曲を書かなくたっていいんですよ。
 「自分がこれだけ好きだ!」ってアピールするだけでもだいぶ、他の人から見たら新鮮だったりクリエイティブなことが多いので。ここはやっぱり、「一億総クリエイター」ですよ。

吉永:
 文字だけの感想ツイートでも、それによってやろうとする人が現れたり。他人の心を動かしたら、もう一部クリエイティブだってことですよ。「このゲーム人生で一番面白かった」みたいなことを書いたら、それを見てやろうとする人もいるじゃないですか。

ZUN:
 それをアウトプットしないで、うちに溜めている人だっていつか爆発する可能性だってある。ずっと溜め続けてるような人もいますけど。

ポリポリ☆クラブ 第93回「集え!作る人と遊ぶ人!~2人の距離は秒速ポリ☆メートル~」
より

創作の成長

 意外と忘れやすい事実だが、実は自分以外の人間も成長する(当たり前)
 10年振りに会った友人が、記憶の中の姿とあまりにも異なり認知できない事もある。
 それとは関係無いが、もっと重要で忘れがちな事は、人間の創作物も成長すると言う事である。

 この事は創作に関わる者は注意しておきたい。創作物を成長しない物として見る目は、時として創造主の成長をも妨げるのだ。
 期待も偏見も全て同じであり、創造主に「こういう創作物を期待している」と考えた時点で、創作物に蓋が出来る。その目には創作物の成長を認知できない。

 大体の人間はその蓋を持っている。
 このジャンルにはこの硬派な蓋、あのシリーズにはこの萌えな蓋、そのメーカーにはギミックの蓋、と一つ一つ丁寧に蓋を被せていく。
 当たり前の様に創作物の成長を見えなくなる様に蓋をするのをよく見る。そういう自分も当然の様に蓋をする。気がつくと自分が通った後ろには、錆付いて動かなくなった蓋ばかり……。

 それは何故か。
 人間は自分が把握出来ない物の成長を感じる事は出来ないからだ。
 親は子供に対し「成長した」と言うが、子供が「大人は成長したなぁ」、なんて言わない。大人を全て把握できていないから当然である。
 ただ、それを言う事が出来る様になる方法が一つある。それが蓋を被せる事なのだ。例えば、親という蓋を被せれば、子供はその範囲内でなら自分なりに理解できる様になる。

 子供は、大人を理解する為に蓋を被せる。
 だが、子供が理解できない大人は、子供にも蓋を被せてしまう。その時、子供は蓋を避けて成長してしまうかもしれないが、大人には不良分子にしか見えないだろう。本当は不良分子こそ、成長の証だというのに。

 人間は、人間の創作物も成長をするという事を忘れ、理解する為に蓋を被せてしまう。訳の判らない芸術も、印象主義とかそういった蓋を被せば理解した気分になれる、が、そこで芸術は足止めを喰らう。
 音楽もロックとか蓋を被せば、理解できた様な詳細な評価が言える様になる、が、他の特徴は身を隠すだろう。
 ゲームだって創作物だ。だからSTGという蓋を被せば理解した気分になれる、だが、本当は一部分しか理解していない事に気がつかない。

 だから、「このゲームは、STGとして面白い」とか、「STGに詳しくないから面白いかどうか判らない」、なんていう摩訶不思議な評価も、違和感が無いようにみえてしまう。
 本来、面白いというのはそんな感覚ではない筈だ。

 あくまでも蓋の下だけで、今回は上手く漬かった、今回はあまり美味しくなかった、蓋の下は発酵したお漬物、蓋からはみ出た物は腐った物、と繰り返しているだけで、蓋が動かない限り創作物の成長は止まってしまっている事に気がつかないのだ。

 時としてプロは、ターゲットが持つ蓋の下で、ユーザーの納得が行く美味しい漬物を作る必要がある。プロのゲームはユーザーが喜ぶものが最良のゲームだから、あえて創造を犠牲にして熟成だけを追い求めてるのだ。

 同人がそのプロのスタイルを真似してしまっては勿体無いと私は考える。蓋を飛び越えたゲームは、売れなくても、ユーザーが望んでいなくても構わないという条件でしか生み出せないのだから。

 創造主が一番捜し求めている事は、創作物の成長を止めないで自在に操る方法である。
 蓋を被せないと成長は見えないが、被せると成長を妨げる。理解出来ないと当然創る事も出来ないし……。

 だが、成長を止めないで創作をする方法は二つある。
 創作物の成長より速く自分を成長させて、常に蓋を創作物より高く上げ続けるか、全ての蓋を空けてしまい、それでも理解できる様になるか。

 前者は、STG→ゲーム→未知の創作物、と自分を成長させる事であり、後者は、自分が成長とは無縁の世界に生き、主体を失う事、つまりは妖怪になる事である。
 私はまだどちらの方法を実践していくのかは決めかねているが……、

今回の永夜抄でそれが見えるかもしれないと期待していたりいなかったりして。

東方書譜「美味しい漬物と、成長と発酵」より ZUN

 “STG→ゲーム→未知の創作物、と自分を成長させる事”はつまり、ZUNさん(本文中では以下、神主)が原作STGのみならず、『香霖堂』という小説、『三月精』という漫画、『儚月抄』という三媒体連載を行い、さらには他者による二次創作とどんどん東方は成長をしていっている。

原作も二次創作

 >同プロジェクトとはいえ、シナリオ等を用意するとなっては、ますますお忙しくなってしまう事でしょう。

 はっきりって、シナリオなんて殆ど無いようなものですよ(笑)
 萃夢想はあくまで格闘ゲームなので、格闘ゲーム用の設定を用意した感じです。キャラとか能力とか服装とか性格とか住処とか。

 ちなみに会話は、従来の東方の会話程度しか用意するつもりは無いです。格闘以外があんまり長かったり無関係だったりすると、格闘ゲームが
冷めてしまうので。この辺は、黄昏さんの方が良く判っているのでまるで問題なく^^;

で、余談ですが、この格闘ゲーム用の設定ってのが非常に楽しく。
 香霖堂の時も思ったのですが、私の中の東方には、確実にゲームより上位にゲーム以外の何かがあるのですよ。
 紅、妖、永は、STG専用に用意した設定になるのですが、STGに限定すると絶対に表現できない死角が現れてしまう。
 否が応でも、これが創作の制限となっている事に気付かされてしまう。
 先日、私が危惧していると書いた創作の制限です。

 STGでは自分と敵の能力が一緒にし難い。また、STGはかなり受身なゲームだと思っているので、それに適した設定がメインになる。
 格闘では、実は1対1というスペルカードルールを表現するのに、STGより向いている。でも、弾幕の様に抽象的に能力の表現をする事が出来ない。
 香霖堂の様に読み物にすると、ゲームの様なインタラクティブ性は無くなって、完全な受身になってしまう。
 でも、戦闘ではない日常を自由に表現することが出来るのはこれだけ。

 どれも、オリジナルのゲームのノベライズとか、オマージュ作品とかとは、全く別物で、あくまで全てが必然という感覚が私の中にあります。
 どれか一つが軸と言うことは無く、全てが沢山ある結界穴の一つ、という事です。全ての穴が繋ぎあっていく日が来るのでしょうか?(笑)

 私にとって見れば、STGである紅、妖、永も、格闘である萃夢想も、日常である香霖堂も、あくまで上位の何者かの配下にある「私にとっての二次創作作品」なんですよ。

幻想掲示板「困ったなぁ」より ZUN

 東方は原作者ですらも、原作者の視た二次創作、である。
 作中においても、東方の話は誰かの視点から見た描かれ方しかしていない。それが一人称であるか三人称であるかは別である。

>「香霖堂」主人をデザインしたのは誰ですか?

 私の指示とイメージでラフを起こしてもらい、それを確認後、細かいところの修正の指示を出す。という作業を数回繰り返します。
 霊夢も魔理沙も同じですね。最初はゲーム中に近いデザインだったので、折角新しく描くのにそれじゃ意味無いですし、パーツや表情、頭身など色々と細かい注文して今の3人になりました。
 私の細かいわがままに、その都度対応してもらえるという事が何よりも素敵です^^

幻想掲示板「冬コミ新作CDの告知」より ZUN

 >作品を表現する人の変更というのは私にとってもの凄く重要なことなのです、むしろやってもらいたく無いことです。

 私自体も、霊夢のキャラクターから霊夢を真似て絵を描いている訳ですから、誰が描いても同じ事です。
 世界も幻想郷の世界の中から引っ張り出してきている訳ですから、それが全てではありません。私は二次創作に関しても推奨します。それは私が二次創作を創っても良いという事でもあります。
 なぜ作品を表現する人が変更になれば嫌か、といえば、それは世界観が異なる物が出来やすいからじゃ無いでしょうか?
 だとしたら、まずは作者ではなく、作品を見るべきだと思いますよ。
 前に言ったと思いますが、そういう訳で私の目指したい作品は、作者の居ない作品、なのですよ。

幻想掲示板「さて」より ZUN

受け手の創作

 そういえば、例大祭の時によく言われたのが、「パズル的なゲームになってしまわないか」とか。遊んで見た方は判ると思いますが、そんな事は一切無いですよね。

 ゲーム(ACTやSTG)での操作の調整の仕方って、大雑把に言うと二つあると思うんですよ。
・プレイヤーの操作の種類を増やして、敵や仕掛けでやれる事を限定する方法。
・システムでプレイヤーを阻害しない様にして、操作を増やさず、やれる事を増やす方法。
 (勿論他にも細かく色々あるんですけど)
 二つは正反対の方向に進むし、出来上がるゲームも全く違う物になるでしょう。
 前者は、複数武器のあるゲームや、武器の回数制限、謎解き、パターン作り、プレイヤーのスキルの向上などが目的になる場合ですね。この場合、使わせる場面とかを用意する事が必要になる。使用武器が多いほど、逆にやれる事を限定する必要があったりする。
 ゼルダとか良い例かも知れないですね。正解以外は出来るだけ排除する。
 これは、正解を導き出すこと、その正解を実行できるスキルを磨くこと、を最大の目的にするためには必要な事です。正解以外に容易に可能なトリックとか、万能武器があったらがっかりですから(笑)

 逆に、単純なゲーム性を持つ場合は後者の方が有効的だと思う。基本的には何をやっても良い。とりあえず最低限の操作はすぐに慣れる。
 色々用意されているが、何も考えなくても遊べてしまうでしょう。操作も少なければ、なお良い。

 これは最大の目的を、プレイする事、世界を味わう事をメインに置いて
いるからです。自分が何を目的に調整しているかで、そのゲームは大きく変化するんですよね。
 言うまでも無く、東方は規模も小さく、単純な快感を持つゲーム。避ける、見て楽しむ、世界感じて悦ぶ。

 これほど単純なゲームは、調整の基準など考えなくても決まるものなんですよ。まぁ、今回ちょっとシステムを複雑にして見ましたが、実は操作は増えていない。
 確かに、ボタンを一つ追加して新しい操作を増やすと、ゲームは大きく変化する。ただ、それでは前者の調整を目指すように変化させないといけなくなる。これは、全く別のゲームになってしまう、ということなんですよ。
 なので、例大祭で心配していた方、その辺は何にも心配なく遊んでいただければ大丈夫ですよ(笑)。東方は何をしても東方です。

 そう、完全に綺麗に線引きされた図形は、それは美しい幾何学的模様を生む。
 ここに、間違った線を一本でも引こうものなら、その美しさは瞬時に崩壊する。人間は、この儚くて完璧な美しさに惹かれ、この美しさを解析し再創造、評価してきた。考えれば考えるほど美しい。
 この職人芸は誰をも納得させる美しさがある。その美しさを究極まで高める事が職人の目的なのだ。
 逆に至極単純な式に、幾つかの因子を与えただけの世界。ランダムに動いている点は、人間の経験的推測では、ただのぐちゃぐちゃとした汚いノイズにしかならないと思ってしまうだろう。だが実際には、この式を阻害する外的要因を外していけば、人間の予測とは裏腹に美しい図形が見えてくる。これはカオスだ。
 人間が用意した図形にはこの神々しい美しさは出せないし、美しさの解析も評価も出来ない。考えると美しさを失う。
 ただただ、その美しさを生み出す因子を模索、創作し続けるだけである。

 この二つのゲームの違いは、到底同じゲームと呼ぶことは出来ない。全く別ジャンルだと考えないといけない時代が来たのかもしれない。
 創作者を混乱させる問題は、従来のユーザー向けジャンルの分け方にある。ショットが撃てる、敵弾が出る、敵の配置の仕方、パズル的な要素、ランダム性、といった表面的な所で線引きをする事は、作り手を混乱させる。
 どうやって創ればよいのか混乱させてしまうのだ。

 ユーザーに向けて出すジャンルの他に、裏では創り方(調整手段)で。ジャンルを分けて呼ぶ事は出来ないのだろうか?
 これが出来れば、職人にも創作者にもなりやすく、同時に評論家にも優しいのではないのだろうか。
 ジャンルは「STG」ではなく「カオス」って……。

 これに対して、読者のコメントがついた。

 これら二つのゲームの違いはユーザーに与えられる自由度の増減に集約されると思います。
 この自由度の差によるジャンル分けは既に一部に存在し、例えば「やりこみ系RPG」「正統派RPG」等と呼ばれます。

 自由度を増した結果、STGが「やりこみ系STG」ではなくカオスになったのは、ゲームのリタンダンシー(冗長性)が従来のSTGの限界を超えた、つまり別のゲームになったからだと思います。
 このカオス的なSTGは第二世代(第三かもしれませんが)のSTGとして認識されるべきなのでしょう。(ここまで感想。ここから私見)

 私はこの変化は結構昔から起こってると思っています。おおよそ稼ぎに対するシステムを搭載したSTGが誕生した段階である程度ZUNさんの言うカオスの枠に入っていたような気がします。
 ついでにここでカオスとなったSTGの進化の一端を(当然それはSTGとは似ても似つかないゲームになっているでしょうが)考察/妄想してみると、恐らく複雑さを増した結果、複雑適応系に相当する第三又は第四世代STG、つまりステージ/弾幕の自動生成が行われるでしょう。
 これはランダムや場合分けではなく、あるテーマに沿った生成です。この生成には明確な規則は見えませんが、ある程度のプレイヤーは操作出来るようになるはずです。言を鬼が笑うまま並べてみました。

 長文失礼しました。

 そして神主がこう返した。

 東方は初期パラメタに世界観をおいて見たゲームです。結果、カオスが表現する世界は弾幕ではなく、ディスプレイを超えて人の心で計算される様になった。これも極端な妄想ですが、このシステムでこの初期パラメタのまま計算を進めると、自動生成されるものは「ステージ、弾幕」ではなく、「表現」。つまり、様々な形態の作品、また多様な二次創作、という風に進化していく、と思えるんですよね。かなり妄想ですが。

以上、東方書譜「カオスなゲーム」より ZUN、読者(名無し)

 原作の初期パラメタが人の心で計算された結果が、今数多くある二次創作に進化したと言えるだろう。まさに最初に引用した『ポリポリ☆クラブ』の

 実際に絵を描かなかったとしても、なにか感情が起こっている人はもうクリエイティブな感じになっている。

 となっているのだろう。

ニコニコ(eR)について

 度々私はニコニコをオタクたちの実家としているが、それと同時に、この(eR)に関してもオタクたちに向いたモノになっていると思う。

 ニコニコのスタンスは、動画投稿者、コメントを書く人、そして視聴者全員がクリエイターというものだ。
 これは先ほどから挙げている、神主の

 実際に絵を描かなかったとしても、なにか感情が起こっている人はもうクリエイティブな感じになっている。「自分がこれだけ好きだ!」ってアピールするだけでもだいぶ、他の人から見たら新鮮だったりクリエイティブなことが多いので。「一億総クリエイター」

 に則している(神主の言葉はあくまで一個人の意見なのでニコニコがたまたま被った、と言った方が正しい)。
 見るだけでも、作品に感動して心が震えたら、職人のようなコメントができなくても、動画にコメントを書いたらそれはもうクリエイターなのだ。

で、私は

 私も心を動かされた人の一人だ。違いは、内に溜めておかずにアウトプット、爆発させたくらい。
 その結果が饅頭組というサークルを作って小説を書きゆっくり投稿者になり動画を投稿し、ビートまりおとまろんに憧れて東方アレンジをはじめ神主たちのブログに憧れてnoteを書いている

 学ぼうと思って学んだ事は、実は非常に薄く狭い。人間はどこでも学ぶことが出来る。道を歩く事も、TVを見ることも勉強になる。
 逆に「時間の無駄だ」「(何かの)やり方を知りたい」「googleで調べろ」を口癖としている人は、学び方を知らないだけなのです。

 確かに、私も有益な会話を楽しもうと努力する傾向にあります。ですが、哲学と言うのは考えることに意味があります。話を聞いて、それに対しての肯定も否定も関係ないところに重要な所があると思うのです。だから、「なるほどそうですね」「それは違うんじゃない?」のどちらでも余り関係ありません。

 哲学と言う日本語は、実はその歴史は浅い。ですが、フィロソフィとは若干違うニュアンスを持っているように感じます。それは、この日本語が非常に優れている証拠でしょう。
 哲を希(こいねが)う学問。日本人の高いセンスを感じます。私の勝手な妄想ですが……。

 ただ読んで聞いて真似してを反芻するだけでは、決して理解には至らない。考える事も含めて初めて形に至るのです。どこぞのゲームみたいじゃないですか。
 考えることもゲームの面白さ、絶賛するのも批判するのもゲームの面白さ。そう考えることで、ゲームの面白さももっと広義に捉えられると思いませんか?

 綺麗さ、爽快さ、気持ちよさ、派手さ、インパクト、ボリューム、スコアリング、複雑さ、パズル性、緻密さ、処理速度、リズム感、中毒性……
 そんな部分の面白さ判定プログラムが作れそうなゲーム理論なんかは、あくまで面白さの一側面でしかなく、真の面白さたりえない。

 最終的に面白さを感じるのは、考えることの出来る人間なんだ。
 同時にその面白さを創れるのも、考えることの出来る人間だけだ。


 ゲームをより高いものに持って行くのに重要なのは、理論ではなく哲学。実学ではなく虚学。結果ではなく経過。主食ではなくお菓子。まぁなんでもいいや。
 工場で生まれたクローンの腕は、高い実用性を持つしそれで商売も出来るでしょう。しかし、その腕には魂は宿らないし個人の名前も付かない、と考えているがいかがだろうか?

幻想掲示板「ゲーム学」より ZUN

 弾幕を避けることに面白さを感じ、弾幕が合わさった原曲に美しさを視て、原作の皮肉たっぷりの会話に心打たれ、ビートまりおの曲で腕を振り、『林檎華憐歌』に感動し、アクティブNEETSのジャズに琴線が引っかかり……

 完璧ではないにしろ作品の面白さに気づき、作品の面白さを知り、作品の面白さを溜め、作品の面白さを発信し、作品の面白さを作る。
 作品に触れることで感情が起き、心が動かされ、その思いを爆発させている。

 私もカオスなクリエイターになっているんだろうな。非常に嬉しいことだ。

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