創作は自由であり、爆発だ。
今回は、この記事のP.S. 部分を本題として扱う。二次創作ではなく、創作全体についての考え方だ。ゆっくり実況者に限らず、全てのクリエイターに通ずる話だ。無論、私も。
創作は自由だ。
創作というのは、二次創作などで条件が加わることなどがあれど、本来自由なもののはずである。ジャンルによって定義があれど、それはあくまで概念的なもの、小さいもののはずだ。
漫画はコマ割りのある絵のことであり、小説は文字で表される物語のことだ。音楽は音を使った演奏であるはずだし、オーケストラは管弦楽を使って曲を演奏する楽団のことだ。
例えば、漫画の代表として『鉄腕アトム』を出そう。しかし、漫画とは「空を飛ぶロボットアトムの活躍する絵」を指すとはならないはずだ。それは『鉄腕アトム』だ。
同じように、ロボットアニメとは「ロボットを題材としたアニメーション」のことだが、『ガンダム』のように「宇宙で巨大ロボットが戦う」作品がロボットアニメの条件でもない。
セカイ系というジャンルを生み出した『エヴァンゲリオン』。セカイ系は「主人公の行動などが世界の運命を決める(諸説アリ)」作品のことだが、エヴァのように「巨大ロボット(厳密にはロボットではないのだが置いておく)を操る少年少女が、正体不明の敵に立ち向かう」作品だけがセカイ系ではない。『涼宮ハルヒ』もセカイ系の作品の一つだが、「巨大ロボット(厳密にはロボットではないのだが置いておく)を操る少年少女が、正体不明の敵に立ち向かう」作品ではない。もしこれがセカイ系の定義だとしたら、『ハルヒ』はセカイ系から除外される。
つまり、代表的な作品がそのジャンルの定義にはなり得ないはずなのだ。あくまで代表的な作品は、そのジャンルの定義を踏まえた上で独自の要素を入れているだけである。
私は弾道をボスのキャラクター性から生みます。キャラクター性は姿形は勿論、音楽、背景、設定から生まれます。そしてそれらは何から生まれるのかは考えて頂ければわかるでしょう。
そして、プレイヤーの誘導や遊ばせ方、弾道の見せ方は最後のドレッシングです。サラダはドレッシングの影響力が一番強いですが、私はドレッシングをサラダとは思いません。
そういう訳で、ユーザーはその末端を楽しみます。でも、創る人は末端だけを創るわけに行かないのです。
このサラダの喩えで言うならば、ジャンルの定義とは野菜たちであり、独自の要素はドレッシングだ。ドレッシングのかかった完成系のサラダを定義とは呼ばないのだ。
今やSTGの代表となった弾幕STG、『東方Project』。しかしSTGの本質は敵を撃つことであるはずだ。弾幕も縦スクロールも、あの画面もスペルカードもあくまでドレッシングでしかない。
しかし、弾幕STGに限って言うと、私にとってはどうしても納得のいかない方向に進んでいる様に思えます。その大きな要因は、難易度のインフレ、弾が多いだけのもの、派手で綺麗だけど見辛いエフェクト、弾避けを考慮に入れない斬新なシステム、あたりだと思っています。
ゲームとして面白い場合も多く、それはそれでいいのですが、場合によっては「弾避けは面白くない、弾があるのはSTGとしての当たり前」、って感覚が何処かにある様に見えるのです。そう見えるのは弾避けの面白さを追求しないなら、何故、敵弾を排除してからSTGを考え直さないのだろう?と思うからです。
まず紅魔郷で、弾幕を切り取りに名前を付け一つのパッケージ化する事が出来ました。
この時、スペルカードのスナップショットを取ることが、なかなか楽しい事に気付いたのです。名前が空間を切り取るのならば、スナップショットは瞬間を切り取る。そのスペルカードの象徴的な瞬間をスナップショットに収める。本来そこまでして初めて一つのパッケージ化出来たと言っても良いのでは無いか、と考えました。
創作が自由でないのならば、ピカソの絵はいつまで経っても評価されない(だから死後評価になったのだと思うが……)はずだ。絵とは何かを平面上に描きあらわしたもので、それに当てはまっていれば全て絵となる。
立ち止まった時こそ
何か創作に立ち止まったら、こういう本質を振り返った方がいいと思う。
ひょっとしたら、サラダの完成系にさらにドレッシングをかけようとしているのかもしれない。それでサラダがさらに美味しくなるのならいいが、場合によっては味が落ちるかも。
これはやや二次創作寄りの話だが、オリジナルSTGを作りたい人が、『東方』を参考にしてもそれは『東方』の二番煎じなどにしかならない。
明確なオマージュとして捧げるのなら話は別だが、『東方』とは異なるSTGを作りたい場合、それは足枷となる。ハートでの残機表示、スペルカード、美しさに重点を置いた弾幕……。それらはあくまで『東方』というドレッシングでしかない。
それ自体が悪いことではない。ただ、見誤ると自分の狙った通りにならない作品になる可能性があるのだ。
野菜を見よう。
一億総クリエイター
ZUN:
結構、この話(作り手とファンの距離感)で一番ごちゃごちゃしているのは東方ですよ。世界一ごちゃごちゃしているんじゃないかな。
「作っている」とか「遊んでいる」とかのようなジャンルがない。だから「あそこに来ている人たちはみんな参加者だ」みたいなことになっていると。
やっぱりゲームと遊ぶこと自体が僕は「クリエイティブじゃない」とは思わない。ゲームを遊んで、なにかいろんな感情が起こる。実際に絵を描かなかったとしても、なにか感情が起こっている人はもうクリエイティブな感じになっている。
それをどうアウトプットするかだけなので、今だったら「プレイしているだけ」も実況動画とかで一応クリエイティブになるから。別にわざわざ絵を描かなくたって、曲を書かなくたっていいんですよ。
「自分がこれだけ好きだ!」ってアピールするだけでもだいぶ、他の人から見たら新鮮だったりクリエイティブなことが多いので。ここはやっぱり、「一億総クリエイター」ですよ。
吉永:
文字だけの感想ツイートでも、それによってやろうとする人が現れたり。他人の心を動かしたら、もう一部クリエイティブだってことですよ。「このゲーム人生で一番面白かった」みたいなことを書いたら、それを見てやろうとする人もいるじゃないですか。
ZUN:
それをアウトプットしないで、うちに溜めている人だっていつか爆発する可能性だってある。ずっと溜め続けてるような人もいますけど。
より
作品を発信するかは置いておいて、なにか想像する心があればそれはみんなクリエイターのはずだ。むしろ、アウトプットする手段がジャンルなのかもしれない。
ゆっくり実況であれば、この動画を実況したい!というところから創作はスタートしている。そしてあの声を使った実況であればそれはゆっくり実況となる。その野菜にどうドレッシングという名の編集を加えるかはクリエイター次第。いくらでも味変は可能だ。
創作は自由だ。
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