日誌「家族と、最期と、ロストケア」 #761
ロストケア
11時過ぎに雨が降る日比谷にいた。雨自体はそこそこだが、風により台風のような雰囲気になっている。今日は映画『ロストケア』を見るためにここまでやって来た。ストーリーを簡潔に書くのは難しいが《誰からも信頼されている訪問介護センターの介護士が自らの手で40人以上の老人を“救い”のために殺していたことが分かる その理由を担当検事が紐解いて行く》と言った感じだろうか。日本が抱える社会問題、誰しも関わる可能性のある介護がテーマになっている作品だ。
絆は呪縛か?
90歳を超えた祖母は元気だが、たまに「ぽっくり死にたい」と言う。実にそういう穏やかな最期を願っているのだろうし、いま考えると“家族に迷惑をかけたくない”と思っているのかもしれない。一方、周りには「施設に入っている家族が自分のことを忘れてしまった」と嘆く人もいる。それを聞いて、私は両親がそうなってしまったらと考えることがある。なぜなら、そうなってしまう確率はゼロではないからだ。また、自分自身もいずれは周りの人を忘れてしまう可能性さえある。
その時、自分に何が出来るのか分からない。現在は、その子と親として向き合える自信がないのだ。そして、以前の自分とは変わってしまった当人たちの葛藤や苦悩もあるはずだ。こうした要素すべてが映画に詰まっていたと思う。言い方が難しいが、誰かにお勧めしたい作品ではない。しかしながら、誰しもに起こりえることである。結果として、自分は観て良かったと思っている。スクリーンを出る時、前を歩くご婦人たちが「でも、お互いに地獄よね」と言っていたことが刺さった。
さもありなん
“愛さえあれば”と乗り切れたら1番の理想ではないか。先のように、自分はまだ確実にそう思えていない。ただ、1人では生きていけないということも確かで、ある意味では互いに迷惑をかけながら生きているのが家族なのかもしれない。祖母の心配も「気にすることはないよ」と受け入れられるのが家族か。そういう家族であり社会であれば良いのだろうか。考えは纏まらない。帰る頃に母から連絡があり、些細なことで父が憤慨しているらしい。これも生きている証かと今日は思える。
この映画を観るきっかけが、森山直太朗さんの主題歌『さもありなん』だった。そうとは知らずに聴いて、単純に聴き入ってしまった。美しい日本語。