見出し画像

Relative Deprivation(相対的剥奪)

「相対的剥奪」とは何か

▼もし「あなたはお金持ちですか,それとも貧しいですか?」と尋ねられた場合,どのように回答を導き出しますか?

▼おそらく,自分の年齢の平均年収がいくらで,それを下回っているから貧しい,とか,逆に上回っているからお金持ちだ,というように,何かと比べて,あるいは他の誰かと比べて回答するのではないでしょうか。このように,他の何か,あるいはだれかと比べて自分の位置を知ることを「相対的に考える」と言います。そして,他人と自分を比較して「自分は満たされていない。自分には他の人にはあって当然のものがない」と考えることを,「相対的剥奪(感)」と言います。

▼この言葉は社会学の用語で,イギリスの社会学者,ピーター・タウンゼント(Peter Brereton Townsend:1928-2009)やウォルター・ランシマン(Walter Garrison Runciman:1934-)の研究が有名です。

In one of the first formal definitions of the relative deprivation, Walter Runciman noted that there are four preconditions of relative deprivation[11] (of object X by person A):
・Person A does not have X
・Person A knows of other persons that have X
・Person A wants to have X
・Person A believes obtaining X is realistic

相対的剥奪の最初の公的な定義の一つの中で,ウォルター・ランシマンは(A氏による対象Bについての)相対的剥奪の4つの前提条件があると述べた。
・A氏はXを持っていない
・A氏はXを持っている他の人たちについて知っている
・A氏はXを持ちたい
・Xを手に入れることは現実的であるとA氏は信じている
https://en.wikipedia.org/wiki/Relative_deprivation#cite_ref-Google_Books_1-0

▼相対的剥奪とは,単なる「ねたみ,うらやみ」ではありません。上の4つの前提条件のうち4番目の「Xを手に入れることは現実的であるとA氏は信じている」というところが重要です。たとえば,1台数億円もするようなスーパーカーのような超高級な贅沢品の場合,それを持っている人をうらやんだり,自分も持ちたいとは思っていても,「現実的に持てる」と思えないならば,相対的剥奪とは言えません。

▼だとしたら「現実的に持てる」というのはどういうことでしょうか。たとえば,かつて携帯電話は一部の裕福な人々だけの持ち物でした。その当時,携帯電話は「必需品」ではなく「贅沢品」とみなされたわけです。しかし,携帯電話を入手することが容易になり,人々に広く行き渡るにつれて「必需品」のようになりました(今はスマホがそれにあたります)。もっと昔は,「テレビ」や「エアコン」も同様でした。このように,時代や場所によって,相対的剥奪の対象となるものは異なります。また,自分にとって必要ないものであればいくらみんなが持っていても関係ありません。簡単に言えば「みんなが持っていて,自分もそれが必要で欲しいのに持っていない時に感じる剥奪感」ということです。

「2種類の貧困」と「相対的剥奪」

▼相対的剥奪という概念は,貧困や格差の研究においてよく用いられています。単に所得や消費のデータだけでは見えてこないものが,相対的剥奪という概念で見えてくることがあるためです。

▼貧困について考える時,「相対的貧困」という言葉を使うことがあります。相対的貧困とは,その国の等価可処分所得(世帯の可処分所得[=収入から税金・社会. 保険料等を除いたいわゆる手取り収入]を世帯人員の平方根で割って調整した所得)の中央値の半分に満たない状態のことを指します(詳しくは以下の厚生労働省の資料[PDFファイル]を参照してください)。

▼「相対」の反意語は「絶対」ですが,「絶対的貧困」とは,生きていくのに最低限必要とされるもの(食料や住まいなど)が入手・利用できない状態のことを指します。ここ数年,日本では「子どもの6~7人に1人が貧困状態にある」と報じられていますが,これは「絶対的貧困」ではなく「相対的貧困」の状態にある,という意味です。「貧困状態にある子ども」というと,たとえば『火垂るの墓』で描かれた戦中・戦後の混乱期のように,町のいたるところにやせ細った浮浪児がいる,という状態をつい思い浮かべてしまいがちですが,そうした「目に見えやすい」絶対的貧困の状態ではなく,相対的貧困はあくまでも他者との比較の問題なので,「目に見えにくい貧困」なのです

▼国の生活水準が上昇すれば,概して,目に見えやすい絶対的貧困は減ります。しかし,生活水準が上昇するということは,そこから取り残されてしまう人々もそれだけ多く出てくる可能性がある,ということです。だからこそ「絶対的貧困」と区別された「相対的貧困」という概念が重要なのです。実際,「日本の子どもの6~7人に1人が貧困状態にある」という問題が可視化できたのは「相対的貧困」という概念が用いられたおかげです。それがなければいつまでも「日本は豊かな国だ」という幻想にしがみついていたはずですから。

▼ところが「相対的貧困」という概念でもつかみきれないものがあります。それを拾い上げる役割を果たすのが「相対的剥奪」です。相対的貧困はあくまでも所得についての問題であり,実際にどのようなものが具体的に欠けているのかを考える上では「相対的剥奪」という概念が必要になるのです。たとえば,所得が少ない家庭でもどうにかやりくりして不便を感じることなく日々を過ごしているケースもあるでしょう。しかし,多くの場合,必要な品物が手に入らない状態に悩まされることがあります。そしてその「必要な品物」は,単に所得のデータからではわからず,また,先に述べたように時代や場所によって異なります。それを可視化するために「相対的剥奪」という概念が用いられるのです。

「復興」と「相対的剥奪」

▼大規模な自然災害が発生したり,今回のコロナウィルス禍のような事態が生じた場合,その災禍に見舞われた地域は大きく打撃を受け,その都度,「復興」という言葉が用いられます。おそらくまだ本格的な研究はそれほどなされていないか,なされていたとしても発表されていないだけなのかもしれませんが,「相対的剥奪」という概念を用いて「復興」の研究を行う必要があるのではないか,と私は考えます。

▼日本はこれまで,多くの様々な災害や疫病に襲われ,その都度「復興」を遂げてきました。しかし,時代が進むにつれて「復興」のハードルが高くなってしまっているのではないか,と思うのです(もちろん,その時代の価値観に内在した視点で検証する必要があります。何もかも現代の視点から見てしまえば,それは「後出しじゃんけん」と同じことになりますから)。極端に言えば,電気やガスが無い時代には,電気やガスの復旧を考える必要がありませんでしたが,現代ではそうしたインフラの復興がまず最優先で,それが無ければ他の復興も進みません。時代が進むにつれて社会は複雑化しましたが,社会が複雑化するにつれて「元通りの状態」に戻さねばならないものの数が増え,その分,「相対的剥奪」も大きくなってきたのではないか,と思うのです。

▼私たちは現代,きわめて高い水準の,便利で快適な生活を享受しています。しかし,皮肉なことに,生活水準が上昇するにつれて,その便利さや快適さが失われる可能性も高まり,以前であれば「剥奪された」と感じる必要がなかったのに,現代では「剥奪された」と感じてしまうものの数も増えてしまいました。つまり,社会の複雑さ,快適さの上昇とともに「相対的剥奪」が増加したのではないか,と思うのです。

▼相対的剥奪とは「『普通』の生活を営めていない」と感じることでもあると言えます。ところがこの「『普通』の生活」のハードルが年々上昇しているのです。「復興」は「災害以前の『普通』の生活」に戻ることですが,その「普通」のハードルが高くなればなるほど,「普通」に戻ることは困難になるのです。

新しい生活様式と相対的剥奪

▼先ほど,安倍首相が緊急事態宣言解除に伴う方針の演説を行いました。その中で首相は「新しい日常」「新しい生活」という言葉を何度も繰り返していました。おそらくこれは厚生労働省が発表した〈新型コロナウイルスを想定した「新しい生活様式」〉のことでしょう。

▼やがてはここに書かれた「新しい生活様式」も「普通」になるのでしょうが,オンラインでテレワークをするためには自宅にそれなりの設備も必要ですし,通信料も馬鹿にはなりません。日本のネットの通信料,特にスマホの通信料金は世界的に見てかなり高く,wi-fi環境も万全とはいいがたい状況です。

▼以前,シリアからヨーロッパに大量に難民・移民が移動していた時,彼らの多くがスマホを所有していました。日本の感覚からすると,一見,「贅沢だ」と思えるのですが,彼らにとってはスマホが命綱であり,ヨーロッパでは無料で利用できるwi-fi環境も充実していることや日本に比べて通信料金が安いことなどから,手軽に所有することができるのです。

▼また,アフリカでも今は,スマホが生活必需品となっています。日本の電気・ガス・水道のようなインフラと同じように,彼らにとってはもはやスマホは「贅沢品」ではなく,「生活必需品」になっています。

「新しい生活様式」でテレワークを推奨することは,その設備を所有・維持できない人々からすれば,「相対的剥奪」の対象がまた一つ増えたことを意味します。確かに感染予防のためにはテレワークを推進することは致し方のないことではありますが,国としてそれを推奨するのであれば,せめて通信費の大幅値下げや,無料のwi-fi環境の充実を優先し,自宅で働きやすい環境づくりを政府が率先して行うのが筋ではないでしょうか。何十億円もかけて布マスクを配って悦に入っている場合ではないのです(もっとも,新自由主義の方針で「小さな政府」を目指し,何もかも民営化を進めてきたこの四半世紀の政府のやり方を見ていると,期待するだけ無駄なのだろう,とも思うのですが…)。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?