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批判すべき対象としての「モダン」という時代認識はいつ始まったのだろうか

▼Netflix でチャップリンの名作・『モダン・タイムス』(1936年)を観ました。ずっと昔に見た記憶はあるのですが,改めて観返しているうちにとても奇妙な感覚にとらわれました。それは「モダン・タイムス」というタイトルについてです。

▼この物語に通底するテーマは「現代社会批判」だと言えます。もちろん,ここでいう「現代」とはこの映画が作られた当時のことですから,1930年代のアメリカのことです。

▼当時のアメリカは1929年に始まった世界恐慌の真っただ中で,この映画の中でも,貧しい生活をする人々が多く登場していることでその影響が見てとれます。そしてこの映画は,資本家と労働者の大きな格差,共産主義への弾圧(資本主義批判),規格化・機械化される文明(産業化批判・機械文明批判),官憲による冷酷な圧力(官僚制批判)といった,いくつもの非常に大きなテーマが含まれた作品であり,それに "Modern Times" という名を冠したチャップリンの慧眼は見事としか言いようがありません。何しろ,ここで批判されている資本主義,産業化,官僚制とは,まさに近代(欧米)社会を代表する社会の在り方なのですから。ちなみに,フランスの思想家,シモーヌ・ド・ボーヴォワールとジャン=ポール・サルトルが1945年に創刊した雑誌 "Les Temps Modernes" はこの映画にちなんで名づけられたとされています。

▼Oxford English Dictionary によると,modern という単語は6世紀の後期ラテン語に端を発し,"Being at this time; now existing."(この時にいる,今存在している[1500年頃~。現在は廃用。]),"Of or pertaining to the present and recent times, as distinguished from the remote past; pertaining to or originating in the current age or period."(遠く離れた過去と区別されるものとして,現在や最近の時代の性質を帯びたり,それに結び付いている;最近の時代に結び付いている,あるいは端を発している[16世紀後半~]),といった意味を帯びて現在に至っています。

▼私の専門は社会学なのですが,近代(modern)という時代は,社会学が生まれた時代であり,かつ,社会学が問題の射程圏として対象としてきたまさにその時代でもあります。たとえば,マックス・ウェーバー(1864-1920),エミール・デュルケム(1858-1917)といった代表的な社会学者たちが問題としてきたのはまさにこの「近代」という時代の在り方であり,その時代性が人間の行為にどのような影響をもたらしてきたのかをそれぞれが自らの視点から論じています。

▼チャップリンがその時代の社会学者の考えに触れていたかどうかはわかりません。しかし,少なくとも,貧困に苦しんできた自らの生い立ちの中で,社会に対するある「まなざし」が養われてきたことは確かでしょう。その「まなざし」こそが,この映画に "Modern Times" というタイトルをつけることにつながったのではないでしょうか。

▼自分が生きている時代を相対化して批判(=分析)することは並大抵のことではありません。たとえば,私たちがいま生きている「現代」とは,いつからいつまでのことでしょうか。去年の4月に「平成」から「令和」へと元号こそ変わったものの,社会の在り方が大きく変わったわけではありませんから,元号というくくりだけで時代をとらえることは必ずしも適切とは言い難いはずです(もちろん,それは「昭和」から「平成」へと移り変わった時も同じことが言えます)。

▼自分の生きている時代を相対化するだけでも難しいことなのに,さらにそれを映画というかたちで表現し,かつ,そこにテーマを包括する大きな名前を付けることはなおさら難しいはずです。それをさらりとやってのけたチャップリンという人は,役者としても超一流ですが,監督としても超一流であり,時代認識や言葉に対するセンスも見事だとしか言いようがありません。

▼ウェーバーやデュルケムは,批判すべき対象としての「モダン」という時代認識を持っていたといえますから,チャップリンがその先駆者とは言えないでしょうが,少なくとも映画界においてはこの『モダン・タイムス』という作品こそが批判すべき対象としての「モダン」という時代認識を持った嚆矢だったのかもしれません。だからこそ,先に述べたように,ボーヴォワールやサルトルもこの映画に影響されたのではないでしょうか。

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