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荒れ野の75年

『荒れ野の40年』

▼今から35年前の1985年5月8日,旧西ドイツのヴァイツゼッカー大統領(当時)が連邦議会で,後に日本で『荒れ野の40年』と呼ばれることになった演説を行いました。これは第二次世界大戦の欧州戦線が終結した日から40年目を記念する演説で,その中に象徴的な一節があります。

問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり,起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は,またそうした危険に陥りやすいのです。(永井清彦訳)

▼この演説は40分以上にも及ぶ長大なものでしたが,ヴァイツゼッカー大統領は言い淀むことも昂ることもなく,終始落ち着いた様子で悠然と,かつ誠実に,第二次大戦中にドイツが犯した罪を振り返り,そのことに対する反省と,未来に向けてのメッセージを発しました。20世紀の名演説の一つに数えられるでしょう(ちなみに,1990年度の東京学芸大学総合社会N類の小論文でこの演説の全文が出題され,「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります」という一文に対する意見を述べる問題がありました)。

▼この演説の最後は次のように未来を担う世代へのメッセージで締めくくられています。これは,若い人たちを含め,一人一人が自由,平和,公正,正義のために努力しなくてはならないのだ,というメッセージです。

ヒトラーはいつも,偏見と敵意と憎悪とをかきたてつづけることに腐心しておりました。

若い人たちにお願いしたい。

他の人びとに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。

ロシア人やアメリカ人,
ユダヤ人やトルコ人,
オールタナティヴを唱える人びとや保守主義者,
黒人や白人

これらの人たちに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。

若い人たちは,たがいに敵対するのではなく,たがいに手をとり合って生きていくことを学んでいただきたい。

民主的に選ばれたわれわれ政治家にもこのことを肝に銘じさせてくれる諸君であってほしい。そして範を示してほしい。

自由を尊重しよう。
平和のために尽力しよう。
公正をよりどころにしよう。
正義については内面の規範に従おう。

今日五月八日にさいし,能うかぎり真実を直視しょうではありませんか。。

▼日本でも,8月15日の終戦記念日に歴代の首相が式辞を述べていますが,残念ながら,この演説と比べるとどうしても見劣りしてしまいますし,歴史に残るようなものとも言い難いでしょう。ということは,残念ながら,それだけ内容に乏しいということでもありますし,そうなると,あの戦争を本気で反省していないのではないか,とさえ勘繰りたくもなるのです。ヴァイツゼッカー大統領の演説の中では所々で拍手が起こりますが,日本の終戦記念日の演説や式辞でそうしたことが起きないのはなぜなのかを考えてみるべきかもしれません。

あれから35年

▼このヴァイツゼッカー元大統領の名演説から35年が経過したおととい,2020年の5月8日,ドイツ大使館が次のようなツイートをしていました。

「当時の教訓が,今日まで私たちの行動の基礎となっています」という一節が訴えるものはとても重いものです。日本の場合,「喉元過ぎれば熱さを忘れる」「いやなことは早く忘れたい」「いつまでも昔のことを引きずるべきではない」という姿勢の方が大きいのではないでしょうか。

▼そしておととい,ドイツのシュタインマイヤー大統領が演説を行いました。ヴァイツゼッカー元大統領の演説ほど長くはありませんが,今の私たちにとっても,心に刻むべきメッセージが含まれています。

このようにして、本日5月8日、ともに記憶を呼び起こしたいと考えていたのです。しかしコロナの世界的流行により、私たちは大切に思う人、感謝を抱いている人と離ればなれのまま、孤独に追悼するという状況を余儀なくされています。

この「孤独」という状況は、私たちを今一度、1945年5月8日のあの日に身を置いてみるきっかけになるかもしれません。当時、ドイツ人は実際に孤立していたからです。ドイツは軍事的に敗北し、政治的・経済的に壊滅し、倫理的に打ちのめされていました。私たちは全世界を敵に回していたのです。

75年後の今日、私たちは、孤独に追悼をせざるを得ない状況にあります。しかし孤立はしていません!これこそ、今日という日がもたらしてくれる福音です。私たちの国は、力強く堅固な民主主義を有し、今年ドイツ再統一から30年目を迎え、平和で統合された欧州の中央部に位置しています。信頼を享受し、世界中の連携と協調の果実を得ています。解放の日は感謝の日である。私たちドイツ人は今、そう言えるのです。

▼とりわけ,以下の一節は,今,日本が直面している大きな問題でもあります。

新たなナショナリズムの誘惑から、権威主義的な政治の魅力から、各国間の相互不信、分断、敵対から自分たちを解放するのです。憎悪や誹謗・攻撃、外国人敵視や民主主義軽視からの解放を進めるのです。これらはみな、装いを新たにしているだけで、かつてと同じ悪の亡霊です。今日、今年の5月8日、私たちはハーナウの外国人銃撃事件、ハレのシナゴーグ襲撃事件、カッセルの政治家射殺事件の犠牲者を悼みます。コロナ禍で彼らが忘れ去られることはありません。

▼「ハーナウの外国人銃撃事件、ハレのシナゴーグ襲撃事件、カッセルの政治家射殺事件」とは,移民や移民擁護派の政治家に対して極右が行ったテロ,ヘイトクライムのことです。

今,日本が直面している危機

▼残念ながら,これほど過去に対して真摯に目を向け続けてきたドイツですら,このようにナショナリズムが台頭し,ネオナチ思想の復活や移民排斥が目立つようになっています。「新たなナショナリズムの誘惑」「権威主義的な政治の魅力」という言葉がその原因を見事に指摘しています。

▼同様に,日本でもナショナリズムが台頭し,現政権もその方向へと舵を切っています。おりしも,昨日(5月9日),内閣が自分たちに都合の良いように司法の人事を操り,法治国家を揺るがしかねないような検察庁法改正案の審議が自民党,公明党,日本維新の会の議員によって強行されました。

▼これに対し, #検察庁法改正案に抗議します というタグがこの文章を書いている時点(2020年5月10日 16:30)で200万件以上もツイートされています(カウントがいったんリセットされているため,実際には300万件近いはずですが)。

▼シュタインマイヤー大統領の演説の中にある「新たなナショナリズムの誘惑から、権威主義的な政治の魅力から、各国間の相互不信、分断、敵対から自分たちを解放するのです。憎悪や誹謗・攻撃、外国人敵視や民主主義軽視からの解放を進めるのです」という言葉は,今の日本人にとっても重要なメッセージです。そして,そのために必要なことは,先に述べたようにヴァイツゼッカー元大統領も示していましたし,シュタインマイヤー大統領も次のように述べています。

イスラエルのルーベン・リブリン大統領は今年、ホロコースト犠牲者追悼の日にドイツ連邦議会での演説で「ここドイツで起きるなら、どこでも起こりうる」と述べました。ここで起きるなら、どこでも起こりうる。しかし今日、その危険から私たちを解放してくれる人は誰もいません。自らの解放は自分で行わなければならないのです。当時私たちは解放されました。それは自ら責任を担うための解放でした。
終戦から75年。私たちドイツ人は多くの感謝すべき状況に恵まれています。しかし、あれ以来得られてきたそうしたありがたい成果のうち、ひとつとして永遠に保障されているものはないのです。5月8日は、解放が終わった日ではありません。あの日から、自由と民主主義の追求が託され続けているのです。私たちに、託され続けているのです

▼しかし,これはドイツの話に限ったことではありません。「日本は関係ないよ」などと思ってはいけないのです。実は,これについては日本国憲法にもきちんと書かれていることなのですから。

この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。 (日本国憲法第12条)

▼残念ながら,自由も権利も,ただぼーっと傍観しているだけでは守れないものです。タナボタ式に与えられるものではないのです。私たちの不断の努力によって保持しなければならないのです(ちなみに,「公共の福祉」とは,他人に迷惑をかけないようにする,ということであって「国家のために自由や権利が制限されてもよい」という意味ではありません)。

「不断の努力」の意味

「不断の努力」の中には,選挙で投票することも含まれていますが,政治について日常的に調べ,考え,議論する空気を醸成することや,政治家に対して働きかけを行うことなども含まれています。ところが残念ながら,日本では政治の話はまるで「タブー」のように扱われる傾向にあります。たとえば「〇〇(「芸能人」や「子ども」など,任意の職業やカテゴリー何でも)は政治の話に口を出すな」といった言説もよく見かけます。以下の記事で〈作家や漫画家、俳優、音楽家らが10日未明、疑義を唱える声をツイッター上で次々と上げた〉とわざわざ書かれているのは,裏を返せば,そうした人々は政治の話に口出しすることがタブーにされている空気がある,ということなのだと言えます。

▼また,18歳から選挙権があるにもかかわらず,学校では政治に関する「仕組み」の教育は行われているものの,主権者としてどうあるべきかということに関しては「政治的中立性を保て」という指示に縛られ,うまく機能していない現状があるようです。

▼本来,政治に限らず,価値判断において人間は「どのような価値からも自由になる」ことはできません。ですから「中立的」というのは「どのような価値からも自由になること」ではなく,逆に「自分が拠って立つ価値を客観的に見定めること」に他ならないのですが,「中立的」という言葉を「どのような価値からも自由になること」と勘違いしてしまっているのではないか,という気がします。

▼興味深いことに「〇〇(特定のカテゴリー)は政治に口を出すな」「政治的中立を保て」という言い方が用いられるのは,政権与党への批判の時にほぼ限られているようで,逆に,政権与党の政策の正当性をアピールする言説に対しては「政治に口を出すな」「政治的中立を保て」という批判はなされていないように見受けられます

▼昨年,大学入試改革をめぐる議論の中で「予備校講師は政治的発言をすべきではない」という言説が話題になりました。私自身は,これが「予備校講師が特定の政党や政治的思想を批判または擁護する発言をして,自分の政治的思想を生徒に押し付けるべきではない」という意味であれば納得できますが,「予備校講師は政治にかかわるな,政権与党の決めたことに批判をするな」という意味であるならば,それこそ逆に中立性を欠いた言説で,民主主義や基本的人権を否定する一種のファシズムであり,職業差別につながる人権侵害であり,厳しく批判されるべき言説だと思うのです。なお,この件については,小池陽慈先生が書かれているこちらの note もご参照ください。

▼「不断の努力」というと実に難しく,厳めしく聞こえますが,職業や年齢,性別などに関係なく,どのような人であっても,政治について,感情的にならず,理路整然と自由に議論できる空気を普段から日常的に失わないようにすること,ととらえるのが妥当ではないでしょうか。これは同時に,他者からの批判を受けとめる,ということでもあります。感情的ではなく,理にかなった批判であれば,それを受けとめ,年齢,性別,職業などに関係なく,全ての人が対等に議論できることが大前提となります。ドイツの哲学者,ユルゲン・ハーバーマスはこうした議論ができる状況を「公共圏」と呼んでいます。

▼そうした「空気」が失われれば,つまり,「公共圏」がなくなれば,それこそ戦前・戦中のような「暗い弾圧の時代」が訪れます。政治的発言を自由にできなくなる,政治について語ることがタブー視される,というのはファシズムへの入り口であり,「荒れ野の75年」の中で自由と権利を維持してきた人々のすべての努力を無に帰すことになるのです。

ファシズムの初期兆候

▼残念ながら,今,日本は「やわらかなファシズム」に蝕まれていると言えるでしょう。Twitter でも流れてきましたが,「ファシズムの初期兆候(初期症状)(Early Warning Signs of Fascism)」という14のリストがあります。

 アメリカ・ワシントンD.C.にある「ホロコースト記念博物館」の"Early Warning Signs of Fascism"と題された展示ポスターに書かれている14の項目が、安倍政権にそっくりあてはまるというので、近年ネット上で話題になっているという(同様にアメリカでは、トランプ政権にあてはまるとして、やはり話題になっているようだ)。そこに「ファシズムの初期兆候(Early Warning Signs)」として掲げられている14項目とは、以下のとおりである。

1. 強力かつ継続的なナショナリズム(Powerful and Continuing Nationalism)
2. 人権の蔑視(Disdain for Human Rights)
3. 団結させるための敵の設定(Identification of Enemies as a Unifying Cause)
4. 軍事の最優先(Supremacy of the Military)
5. はびこる性差別(Rampant Sexism)
6. 支配されたマスメディア(Controlled Mass Media)
7. 国家安全保障への執着(Obsession with National Security)
8. 宗教と政治の結合(Religion and Government Intertwined)
9. 企業の力の保護(Corporate Power Protected)
10. 労働者の抑圧(Labor Power Suppressed)
11. 知性や芸術の蔑視(Disdain for Intellectuals and the Arts)
12. 刑罰強化への執着(Obsession with Crime and Punishment)
13. 身びいきや汚職の蔓延(Rampant Cronyism and Corruption)
14. 不正な選挙(Fraudulent Elections)

 なるほど、以上の14項目のなかで、安倍政権にあてはまらないものは、なさそうである。 日本の現状は、すでに「ファシズムの初期兆候」をみせているのである。いや、実は「初期兆候」ではない。この展示ポスターの内容は、2003年にLaurence W. Brittというアメリカの政治学者が発表した"Fascism Anyone?"という論文からの抜粋だとされる。この論文は、ヒトラーのドイツ、ムッソリーニのイタリア、フランコのスペイン、サラザールのポルトガル、パパドプロスのギリシャ、ピノチェトのチリ、スハルトのインドネシア、といった歴史上現存したファシズム体制の分析を通じて、上記のような14の共通する特徴を抽出したのであった。だから、上記の14項目は、「ファシズムの初期兆候」というよりもファシズムそのものの特徴を示したものなのである。ということは、安倍政権の日本は「ファシズムの初期兆候」をみせているというよりも、ファシズムそのものだというべきことになる。だとすれば、冒頭に書いた「アベ友メディア」による「敵性人物」への個人攻撃も、あたりまえにある話だということになろう。
浦部法穂の「憲法雑記帳」 第16回 ファシズムの初期兆候?

▼ちなみにこれは,以下のサイトによればホロコースト記念館の展示物ではなく,ホロコースト記念館の土産物店で売られているポスターである,とのことです。

▼実際,以下のサイトでも販売されています。

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▼リストの内容に関する学術的な妥当性は検証の余地があるところではありますが,直感的にはある程度の真理を言い当てているのではないか,と思うのです。

否と言うこと

▼フランスの哲学者,アラン(エミール=オーギュスト・シャルティエ)は,『裁かれた戦争』(白井成雄訳,小沢書店,原著は1921年)の中の「否と言うこと」という短い文章の中で,次のように語っています(太字は引用者)。

否と言うことは決してたやすいことではない。暴力を用いて権力を罰する方がまだやさしい。だが誰でもすぐ気がつくように,これではまた戦争となる。このように怪物は到る所で口をあんぐりとあけている。ここからあの受身の諦めが生じる。しかし精神は別種の戦いを挑む。(p.159)

▼暴力で権力を倒しても結局は元の木阿弥で,そうなるともう「受身の諦め」しかない,というのは,今の日本にまさに当てはまることだと思います。既に100年も前に,今の日本と同じような状況を指摘していたと言えるでしょう。

誰でも己の自由を求めるが,しかし求め方が間違っている。暴力に暴力で立ち向かおうとし,たちまち別種の隷属状態に陥ってしまう。肉体の方は従わせておけばよい。それだけでは大したことにはなるまい。戦争を準備する者はこの点をよく承知しており,彼らは君の精神を欲しがるのだ。つまり判断の混乱を欲しがるのであり,模倣がこれを支え,華やかな光景や雄弁がこれを刺戟する。この酒を飲んではならない。誰も君を強制はできない。熱狂するよう義務づけられてはいない。(pp.159-160)

▼先に挙げたシュタインマイヤー大統領の演説の中にある「新たなナショナリズムの誘惑」や「権威主義的な政治の魅力」はここにつながるものだと言えます。民衆は,整然とした軍隊の行進や,指導者による敵国に対する雄弁な演説に酔いしれ,そこに一体感を求めるのです。「カッコいい」と思わされ,その権威に誘惑されるのです。

攻撃命令を下しながら先頭に立たない人間を想像してみるがよい。ただしその際も怒りは押さえるがよい。怒りもまた戦争なのだから。ただ,そんなことは決して賛美できないとだけいうがよい。ヒロイズムを冷静に見定めるがよい。(p.161)

▼指揮官は,勇ましいことを言います。しかし,いくら勇ましいことを言っても,指揮官は最前線には出ません。そのヒロイズムに騙されてはいけないのです。

 そして,指揮官の道を選び,前線に出て自ら血を流す者に対しても,これまた厳しい判断を下すがよい。二十歳で絶対権を持つ指揮官となり,二十歳で国王もこれほどとは思えないまでにかしづかれ,二十歳で五十人の男性の神となることは,野心家なら危険を犯す価値のあることだ。この専制的権力はたちまちそれなりの利益と勝利を収める。死の危険に直面するのは遠い先のことだ。それに位階が上がるにつれて希望もふくらむ。だから,この道を選び,それを恥ずかしげもなく吹聴する連中は,自分を犠牲にしているとはとてもいえないのだ。逆に,彼らの野心満々たる情念は,もっぱら平穏な暮しを願っている庶民を大量に犠牲にしてしまう。さて君は観客の立場にある。この大げさな俳優たちが受けるか否かは君次第だ。口笛を吹く必要さえない。相手にしなければそれで十分だ。否と言うことである。(p.161)

▼野心的で攻撃的な人間は,一見したところ,魅力的に思えます。しかしそれは,自分に従うものを踏み台にして,自分がのし上がる野心のためであり,平穏に生きたいと願っている庶民を巻き込んで犠牲にすることをいとわないのです。

▼戦争について,国家について考えるたび,私はこのアランの「否と言うこと」を思い出します。「新たなナショナリズムの誘惑」や「権威主義的な政治の魅力」に満ちたヒロイズムという美酒を差し出されても,毅然と「否」を突き付け続けることが自分にできるだろうかと自問し続けます。

▼戦争ではなくとも,国家という権威に結びついたヒロイズムの美酒は,常に私たちにその杯を飲み干すように誘惑してきます。以前にも書いた「自粛警察」は,まさにそのヒロイズムの美酒に酔っていることの証だと言えるでしょう。そして,私自身の中にもきっと,そうしたヒロイズムの美酒に酔いたいという欲望がどこかに隠されているのです。そうした欲望に諍い,「否」と言い続けること。それも,日本国憲法第12条に書かれている「不断の努力」の一つだと言えるでしょう。

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