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戯曲『哲学探究』①

[Side B: 環英志]

▼教員・糸玄修太(いとげん・しゅうた)が教室に入ってくる。教卓の前に立ち,黒板を背にして学生に話しかける。神経質そうな厳めしい顔立ち。教卓の上に,ペットボトルに入った水と,ハンカチを教卓の上に慎重に置く。置いた位置が納得できないのか,何度か角度などを調整する。

糸玄「今から私の講義を始める。名前というものは意味をなさないかもしれないが,私という人間についている名前は,糸玄修太(いとげん・しゅうた)である。この講義では,私が課題を設定し,それに対して私が考え,私が答えを出してゆく。いわば,私の,私による,私のための講義である。諸君はただそこに存在しているだけで良い。何も発言してはならない。ノートをとることは構わないが,大きな物音を立てるなどして私の思考の妨げになってはならない。」

▼厳めしい表情でそう言い放った後,おもむろに講義を始める。

糸玄「では,始めよう。本日の課題は『シャツに書かれた言葉』である。まず,このシャツを見て欲しい。」

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▼シャツに書かれた「虚弱体質」という文字を学生に向けて示す。

糸玄「ここには『虚弱体質』と書かれている。では,これは何を意味しているのだろうか。もしかすると,これはシャツのブランド名かもしれない。だが,そのようなブランドは存在していない,としよう。これを見た人々は,私が自分のことを虚弱体質だとアピールしているように思うかもしれない。しかし,私が本当に虚弱体質なのかどうかを確認するすべはない。医師の診断書があるわけでもない。いや,そもそも虚弱体質ということばは何を指すのか。仮に,私が虚弱体質かどうかを確認しようと思うのであれば,明確な定義が必要なはずだ。しかし,言葉を明確に定義することは不可能である。たとえば,広辞苑で『右』という言葉を調べてみると,『南を向いた時,西に当たる方』と書かれている。しかるに,『南』を調べてみると,『日の出る方に向かって右の方向』と書かれている。循環してしまう。これでは定義は不可能だ。」

▼教卓に置かれた水を口に含む。ハンカチで神経質そうに口元を拭く。ペットボトルとハンカチをもとあった位置に正確に置き,再びしゃべり始める。

糸玄「『虚弱体質』という言葉を定義しようとすれば,『体が弱い』というのはどういうことかを定義せざるを得ない。しかし,何をもって『弱い』と言えるのか。どこからどこまでが『強い』のか,どこからどこまでが『弱い』のか。今,目の前に1,000本の柱が並んでいるとする。1本目は100%赤い色だ。2本目は99.9%赤だが,0.1%は白が混じっている。では,その柱は何色なのか?おそらく『赤い柱だ』と答えるだろう。3本目は99.8%が赤で,0.2%が白だ。では,その柱は何色か。これも『赤い柱だ』と答えるであろう。そのようにして,0.1%ずつ白が混じり,赤の比率が減っていけば,1,000本目は完全に白い柱になる。では,どこからどこまでが赤い柱で,どこからどこまでが白い柱だと言えるのか。『体が弱い』というのもこれと同じことで,どこからどこまでが『強い』のか,どこからどこまでが『弱い』のか,誰もが納得できる共通の見解はない。そうなると,『虚弱体質』という言葉は何も明確なものを指していないのではないか,ということになる。」

▼もう一口,水を飲み,また神経質そうに口元を拭く。

糸玄「仮に,このシャツの『虚弱体質』という言葉が,私の体質を表そうとするものだとしよう。だが,私が実際には虚弱体質ではないとするならば,私は嘘をついていることになるのだろうか。それゆえに,私は『虚弱体質』というシャツを着てはいけない,ということになるのだろうか。否。そのようなことはない。広島の町を歩いていると,広島カープのユニフォームを着た人々を何人も見かける。そこには背番号や選手名が書かれているが,彼らはその背番号や選手名の人物でもないし,野球選手ですらない。では,彼らはそのユニフォームを着る資格はない,ということになるのか。嘘をついていることになるのか。否。そのようなことはない。では,なぜ彼らはそのユニフォームを着ているのか。それはチームや選手に対する応援の意味であり,彼らがその選手のファンであることを表しているのだ。」

▼額から汗が流れ落ちる。ハンカチでそれをぬぐい,水を一口飲み,口元を拭く。

糸玄「では,私が『虚弱体質』というシャツを着ることによって,私は『虚弱体質』の人々を応援するファンである,と公言していることになるのか。否。それも違う。では,私がこのシャツを着ている意味とは何であるのか。あるいは,このシャツに書かれた『虚弱体質』という文字にはどのような意味があるというのか。」

▼考え込む糸玄。教壇の上を行ったり来たりし始める。やがて,教卓の背後にある椅子に座り,教卓に肘をつき,頭を抱え込む。

糸玄「うーむ…」

▼そうつぶやくと,しばらく黙り込み,何事かぶつぶつ呟き始める。

糸玄「む…いや,違う…。そうではない…」

▼また黙り込む。

糸玄「…私は無能だ…。諸君は不幸だ…。」

(続)

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