見出し画像

スキーマを広げる(8):言語ゲーム

▼「ことば」とは何か,という問いに多くの思想家たちが取り組んできました。たとえば,スイスの言語学者・フェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure,1857年11月26日ー1913年2月22日)のように,言語を「差異」という観点から考えた思想家もいました。

▼なお,現代思想における,言語についての様々な観点については,以下の本が刺激的です。

▼さて,言語について考えた思想家の中で最も影響力の大きい一人が,オーストリア出身のルードヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン(又はウィトゲンシュタイン)(Ludwig Josef Johann Wittgenstein,1889年4月26日―1951年4月29日)ではないでしょうか。

▼ヴィトゲンシュタインの生涯については非常に多くの逸話が残されています。また,その生涯が映画にもなっています(脚色されてはいますが)。

▼なお,ヴィトゲンシュタインの逸話や思想については,作家の諸隈元シュタインさんがTwitterで多くのつぶやきをしてくださっていますので,ぜひそちらを参照してください。

▼ヴィトゲンシュタインが生前に出版した本はわずか2冊でした。一つは『論理哲学論考』,もう一つは小学校の教師をしていた時に作成した子ども向けの辞書『小学生のための正書法辞典』です。

▼大学入試でヴィトゲンシュタインの著作から出題されることはまずないのですが,ヴィトゲンシュタインの思想について書かれた英文はいくつか出題されています。以下の英文は,2009年度防衛大学校第1次試験第6問で出題されたものです。少し長いですが,引用します。

    Wittgenstein saw that many philosophical conundrums might be solved by careful attention to the ways in which people use words. In his earlier writings, he had treated language as a means of understanding the world ― as a privileged means of looking through to the structure of the world. Now, however, he saw language itself as the spawner of problematic issues, and the exercise of coming to understand how we use language as the therapy for philosophical problems. In his later work, Wittgenstein did not try to solve problems but tried rather to show that they arise from a network of terms that have evolved in such a way as to make their disentanglement extremely difficult. As he once commented, his aim in philosophy was to show the fly the way out of the fly-bottle.
(ヴィトゲンシュタインは,多くの哲学上の難問が人々の言葉の使い方に慎重に注意を払うことで解決されるかもしれないと考えた。初期の著作で彼は言語を,世界を理解する手段として,つまり,世界の構造を見通す特権的な手段として扱った。しかしながら,その後,彼は言語そのものを問題となっている事柄の源泉であるとみなし,どのように私たちが言語を用いるのかを理解するようになるという行為を哲学上の問題への解決法だとみなした。後期の著作では,ヴィトゲンシュタインは問題を解決しようとはせず,問題の解決を極めて難しくするようなやり方で発展してきた言葉のネットワークから問題が生じていることを示そうとした。彼がかつて語ったように,哲学における彼の目的とは,ハエにハエ取りビンの出口を示すことであったのだ。)
(中略)
    More generally, Wittgenstein believed, it is instructive to think of language as a set of games: we proceed from the fact that we are always involved in many language games ― interactions with other individuals in which we move around sets of linguistic counters; and, like a set of games, each of these little encounters has its own set of rules. But it is not easy to ferret out these rules because they overlap with one another: the language games constantly mesh. To add to this tangled state of affairs, words do not have clear and unambiguous meanings. The word game itself has a family of meanings, with no definition ever sufficient to account for all, and only all, games. Given the numerous language games occurring at any one time, and their inherently overlapping nature, it is no wonder that Wittgenstein despaired of ever solving philosophical problems in the rigorous way that he and his Viennese peers had once hoped. It made more sense to try to dissolve the problems altogether, by showing that they had been deceptively phrased.
(ヴィトゲンシュタインの考えでは,より一般的には,言語を一組の様々なゲームとみなすのが役に立つ。私たちは,自分が常に多くの言語ゲーム,つまり,何組かの言語のコマをあちこちに動かしている他者とのやり取りの中にかかわっているという事実から進んでいく。そして,一組のゲームのように,これらの小さな出会いのそれぞれがそれ自身のルールの組み合わせを持っている。しかし,これらのルールを探し出すのは用意ではない。というのは,そのルールがお互いに交錯しているからだ。言語ゲームは常に絡み合っているのだ。この絡み合った事態の状態に加えて,言葉(単語)には明確であいまいさの無い意味が無い。ゲームという言葉そのものには,意味の家族があり,全ての,そしてわずか全てのゲームを説明するにも決して十分な定義が無い。多くの言語ゲームが一度に起こっていることを考慮すれば,また,その本来的に交錯した性質を考慮すれば,ヴィトゲンシュタインが,自分とウィーンの仲間たちがかつて望んだような厳密なやり方で哲学的問題を解決することをあきらめたことは何ら不思議ではない。問題が人を欺くようなやり方で述べられてきたということを示すことで問題を完全に解決しようとすることの方が意味をなしているのだ。)
(Howard E. Gardner, The Mind's New Science: A History of the Cognitive Revolution, 1985, pp. 68-69)

▼上の英文の第1パラグラフに書かれているように,ヴィトゲンシュタインは初期と後期とで大きく考え方を転換しています。なお,上で言及されている「初期の著作」とは『論理哲学論考』のことです。後期の代表作は,ヴィトゲンシュタインの死後に弟子たちがまとめた『哲学探究』です。

▼今日のテーマである「言語ゲーム」という考え方は,後期の『哲学探究』の中で提唱されたものですが,それを理解するためには,まず,前期の『論理哲学論考』で述べられたことについて理解する必要があります。

語りえぬものについては沈黙しなければならない

 この書物は哲学的な諸問題を取扱う。そして私の思うには,これらの問題提起が我々の言語の論理の誤解に基づいていることを,この書物は示している。書物の全体の意義は例えば次の言葉にまとめられよう。即ち,およそ語られうることは明晰に語られうる,そして話をするのが不可能なことについては人は沈黙せねばならない,と。
(奥雅博訳『論理哲学論考』,『ウィトゲンシュタイン全集1』,大修館書店,p.25,太字引用者)

▼『論理哲学論考』の中でおそらくもっとも有名なフレーズは,序文と末尾に登場する「語りえぬものについては沈黙しなければならない(話をするのが不可能なことについては人は沈黙せねばならない)」ということばではないでしょうか。では,『論理哲学論考』の中で彼は何を伝えようとしたのでしょうか。

▼初期のヴィトゲンシュタインにとって,言語とは,世界を映し出す鏡のようなものであり,ことば(命題)とそのことば(命題)が示している事象は鏡に映った自分の姿のように対応していなくてはなりません。また,その命題は真偽を判定することができなくてはなりません。

▼たとえば,晴れている日に「今日は晴れていますね」と言った場合,その命題は真ですが,「今日は雨が降っていますね」と言った場合,その命題は偽であると判断できます。しかし,晴れた空を見上げて「あそこに神様がいます」とか「今日の空は綺麗ですね」と言った場合,その命題の真偽を判断することはできません。これらは形而上学的な領域に属するものであり,そこに真偽を判断するための対応する事象が存在していないためです。

▼もちろん,だからと言って「神は存在する」とか「空が綺麗だ」と言ってはならない,と主張しているわけではありません。重要なのは,こうした形而上学的な領域の問題を形而上学において論理的に語ろうとすることが誤りである,ということをヴィトゲンシュタインは主張しているのです。

4.003 哲学的な事柄についてこれまで書かれた大抵の命題や問は,偽なのではなく無意義なのである。それ故我々はこの種の問いに決して答えることはできず,問の無意義さを確認することしかできない。哲学者たちの大抵の問いや命題は,我々が我々の言語の論理を理解しないことに起因している。
(それらは,善と美は多少とも同一であるか否か,といった種の問である。)
そして最も深遠な問題が,実は全く問題ではないということは驚くべきことではない。
(奥雅博訳『論理哲学論考』,『ウィトゲンシュタイン全集1』,大修館書店,pp.45-46,太字引用者。太字箇所は傍点。)

▼世界はことば(命題)で語ることができる事実の集まりであって,「真とは何か」「善とは何か」「美とは何か」「神は存在するのか」「死後の世界はどうなっているのか」といった問いは,示すことはできても(論理的に)語ることができない無意味なものである,ということであり,それゆえにこれらは「語りえぬもの」であり,「沈黙しなければならない」のだ,ということになります。

▼ヴィトゲンシュタインはこの本を書き終えた後,哲学において自分のなすべきことはもうすべて終わったと判断し,哲学から離れます。その後,1920年頃からオーストリアの片田舎で小学校の教師になりますが,あまりにも子どもに対して厳しく,容赦なく体罰を与えたことなどで辞職することになりました。教師を辞してからは庭師になったり,姉の家を設計したりと職を転々としましたが,最終的にはケンブリッジ大学教授となり,再び哲学の仕事に邁進し始めました。

言語ゲーム論への転回

▼後期ヴィトゲンシュタインの代表的な著作は,彼の死後に二人の弟子によってまとめられた『哲学探究』(1953年)であり,その中で論じられた「言語ゲーム」という言葉がヴィトゲンシュタインの思想で最もよく知られたものだと言えるでしょう。

▼前期の『論理哲学論考』では,言語は世界を映し出す鏡のようなものであり,世界は言語(命題)によって表すことができる事実の総体である,と述べましたが,ヴィトゲンシュタインはその考え方をあらため,世界は「言語ゲームである」と考えるようになりました。

 「言語ゲーム」ということばは,ここでは,言語を話すということが,一つの活動ないし生活様式の一部であることを,はっきりさせるのでなくてはならない。
 言語ゲームの多様性を,次のような諸例,その他に即して思い描いてみよ。
 命令する,そして,命令に従って行為する――
 ある対象を熟視し,あるいは軽量したとおりに,記述する――
 ある対象をある記述(素描)によって構成する――
 ある出来事を報告する――
 その出来事について推測を行う――
 ある仮説を立て,検証する――
 ある実験の諸結果を表や図によって表現する――
 物語を創作し,読む――
 劇を演ずる――
 輪唱する――
 謎をとく――
 冗談を言い,噂をする――
 算術の応用問題を解く――
 ある言語を他の言語へ翻訳する――
 乞う,感謝する,ののしる,挨拶する,祈る。
――言語という道具とその使い方の多様性,語や文章の種類の多様性を,論理学者が言語の構造について述べていることと比較するのは,興味ぶかいことである。(さらにまた『論理哲学論考』の著者が述べていることとも。)
(藤本隆志訳『哲学探究』,『ウィトゲンシュタイン全集8』,大修館書店,pp.32-33,太字引用者。太字箇所は傍点。)

▼『論理哲学論考』で語られた,「世界の事象を映し出す鏡のような存在としてのことば」という考え方では,説明がつかないものが生じているのです。

われわれは,実にさまざまな種類のことを文章によって行うのである。感嘆詞だけを考えてみよう。それらには,まったく異なった機能がある。
 本!
 あっち!
 わあ!
 助けて!
 すごい!
 ちがう!
 これらの語が「対象を名ざしている」と,あなたはまだ言いたいのだろうか。
(藤本隆志訳『哲学探究』,『ウィトゲンシュタイン全集8』,大修館書店,p.35。)

▼たとえば,「おはよう」ということばについて考えてみましょう。「おはよう」ということばが何かを指し示しているとするならば,私たちはそのことばを厳密に定義できなくてはなりません。もし,「おはよう」ということばを定義しなさい,と言われたらどうしますか?

▼「そんなの簡単だよ。朝の挨拶だろ?」と思うかもしれませんが,それでは,「朝」とは何時何分何秒から何時何分何秒までのことでしょうか?また,芸能界や調理師の業界などでは,時間帯に関係なく「おはよう」という挨拶を行いますが,そうなると「朝の挨拶」という定義は意味をなさなくなります。厳密に定義できないのに,どうして「おはよう」ということばを私たちは使っているのでしょうか?

▼次に,「右」ということばを定義してみましょう。『広辞苑』には次のような定義が載っています。

南を向いた時,西にあたる方。

▼ということは,「南」ということばの定義がわからないと「右」の意味はわからないということですね。では,同じ辞書で「南」を調べてみましょう。

四方の一つ。日の出る方に向かって右の方向。

▼あらら(笑)。なんと,循環してしまうのです!「右」を知るためには「南」を知らなくてはならないのに,「南」を知るためには「右」を知らねばなりません。これでは定義することができませんね。

▼最後にもうひとつ。「おなかが痛い」と誰かが言ったとします。では,そのことばは何を表しているのでしょうか。もし,『論理哲学論考』にあるように,ことば(命題)が世界を移す鏡だとすれば,「おなかが痛い」という命題に相当する事象が存在しているはずですね。

▼ところが,他者の「おなかが痛い」という事象が本当に存在しているのかどうかを確かめる術はないのです。それどころか,もしそれが仮病だとしたら,その事象が存在していないにもかかわらず「おなかが痛い」という命題だけが存在することになります。

▼このように,ことばの「意味」を考えると,実は(厳密に)定義することができない,という問題に突き当たります。そして,厳密に定義することができないものを,また,そもそもことばに対応する事象が本当に存在しているかどうかすらわからないのに,なぜか私たちはことばを使いこなせているのです!

▼あたりまえじゃないか,と思うかもしれませんが,そのあたりまえのことにそれまで誰も真剣に取り組んでこなかったのです。そして,ヴィトゲンシュタインはこのあまりにもあたりまえすぎて見過ごされてきた難題に対して,「これは言語ゲームだ」と示すことだけで解答したのです。

▼ことばの厳密な定義が不可能である以上,言語ゲームそのものも定義することはできません。ただ,言語ゲームなるものがそこに在ることだけを示せば,それで十分なのです。

▼ゲームには,ルールが存在します。ヴィトゲンシュタインはことばをチェスの駒になぞらえていますが,私たちは駒の動かし方についてのルールを(それすらも定義できないにもかかわらず)使って毎日を過ごしているのです。そして,ルールさえ存在していれば,駒は何でも良いのです。朝,挨拶をするときに「おはよう」と言わなくとも,「オッス( ̄Д ̄)ノ」でも「ちぃーっす」でもいいし,ことばを発しなくとも,ただ手を挙げるだけでも挨拶は成り立ちます。

▼余談ですが,私が中学生のとき,クラスメートの悪童が教室に麻雀牌を持ち込んで放課後に麻雀をしていました(私は参加していません)。それが先生にみつかり,牌は没収されましたが,彼らはそれでもどうしても麻雀をしたかったのでしょう。紙で麻雀牌を手作りしたのです(笑)。牌の運用についてのルールさえあれば,なにも麻雀牌を使う必要はない,ということですね。頭の中で行う将棋や囲碁もこれと似ているかもしれません。

▼いわば,世界は(厳密に定義できないけれど)無数のルールの網の目から成り立っていて,私たちはその中でことばを使った言語ゲームを行っており,その「(ことばの)使われ方」を見ることこそが重要である,というのがヴィトゲンシュタインの主張なのだと言えるのではないでしょうか。

「勘違い」でも言語ゲームは成り立つ

▼これはコミュニケーションという観点から言語について考えたものであると言えますが,よりラディカルな言い方をすれば,定義すらできないルールを使っている,ということは,実はそのルールには何の「根拠」もない,ということでもあり,「勘違い」のままコミュニケーションが成立してしまうこともありうる,ということです。

▼以下に引用するのは,社会学者の宮台真司さんが「吉幾三問題」と呼んでいる事象です。

 ただコミュニケーションのプロセスで、「えっ?それをコーヒーと言ってたの?」ということはいくらでも存在するわけです。
 こないだちょっと出しましたけど、吉幾三の笑い話というのがあるわけですよ。
 吉幾三は青森から東京に出てきたときに、喫茶店で働いていたわけだ。ある時マスターがいなくなっちゃったんで、一日中自分が店を任された。客がやってきて、メニューを見て「ウインナーコーヒーはありませんか」と言った。吉幾三ははたと考えて「聞いたことがない、しかしウインナーコーヒーと言うくらいだから、ウインナーとコーヒーのことだろう」と思って、コーヒーと、フライパンであぶったウインナーを出したら、客は何の疑いもなく食べて帰っていった。
 たまたまそれについてはね、吉幾三が「今日ウインナーコーヒーって言われたんでウインナーとコーヒーを出しときましたがそれでよかったんですか」って言って「バカヤロウ」って(笑)いうことになったんで、笑い話が成立したんですが、「ウインナーコーヒー」って普通名詞ですけどね、例えばそこで吉幾三がマスターから「違うぞ」って言われなければそこで間違いに気がつかなかった。そのまま一生を終えたかもしれませんね。客もそうです。「間違いだ」と誰かに指摘されるチャンスに出会った可能性もあるけど、出会わない可能性もありますよね。
 でもそれを考えると、全ての普通名詞がそうでしょ。つまりそれで「間違いだ」と指摘されないことによって、カテゴリーを支えている消極的予期を顕在化しないで済んでいる。その消極的予期というのはネガティブ・エクスペクテーションということで意識していませんから、何がコーヒーだと思っているのかについては、間違いが出てこない限り分からないんですよ。
 固有名だけじゃなくって、普通名詞も含めてカテゴリーは全てネガティブ・エクスペクテーションという言及不能な地平によって支えられていて、それは間違いだと指摘される、言い換えれば期待外れという端的な事態に出会った瞬間に、全体は分からないですけど、ネガティブ・エクスペクテーションのある輪郭が分かるというだけのことで、そういうことによって実はコミュニケーションが支えられているんだ、というのが僕の論文「消極的予期とコミュニケーション」というものなんですよね。
( 宮台、東浩紀の〒(郵便)本を語る その2 )

http://www.miyadai.com/texts/azuma/02.php

▼この「ウィンナコーヒー」ということばを巡るやり取りでは,客も店員(吉幾三さん)も「ウィンナコーヒー」が本当は何を指しているのかわからないまま,それでもコミュニケーションが成立してしまっている,つまり,言語ゲームが成り立っている,ということになります。

▼ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論は,言語哲学だけでなく,社会学など他の学問にも大きな影響を与えてきました。だからこそ,英語でも現代文でも,大学入試で出題される文章で言及されることがあるのだと言えます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?