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【36】ジェンダー平等、もう一つの道(2) 平等に不自由でいい

 前回触れたとおり、今世の中で「目指すべき」とされているジェンダー平等な社会像というのは主に以下の2つに集約されると思う。

・性別に伴う困難のない社会
(「誰もが性別に捉われず自由に生きられる」「誰もが性別を理由に不利益を被ることがない」といったイメージ)

・あらゆる面で男女の不均衡がない社会
(「男女がどんな分野でも同じように活躍できる」「どんな分野でも男女比の著しい偏りがない」といったイメージ)

 厳密にはどのような世の中を「望ましいジェンダー平等社会」であると見なすかは論者によって様々であり、簡単にひとまとめにはできないのかもしれない。ただ、世界的な潮流としてなんとなく理想とされているのはこういったところではなかろうか。

 私もこれらはできるだけ達成された方が良いと思う。しかし、これまで論じてきたように、男女はそもそも同質の集団ではないので、この理念を徹底しようとすると、どこかで無理が生じることになる。

 男性と女性はまず身体的条件がはっきりと違う。また、興味の対象や気質や性的なあり方といった心理的条件も、個人差は大きいものの集団レベルでは異なる。得意な分野や苦手な分野も、これまた個人差が大きいものの集団レベルでは違いがある。しかも男女の利害(特に性的な利害)は、しばしば対立したりもする。

 そのため、日常生活や人生の様々な場面から、性別に伴う生きづらさを完全に取り除くことは不可能だし、社会のある領域では男性が多数派(または有利)になったり、別の領域では女性が多数派(または有利)になる、といった不均衡を無くすこともまた極めて困難だと思われる。

 「ではジェンダー平等は諦めろと言うのか!?」と問われたら、「まあ、ほどほどのところで良しとするしかないのでは」というのが私の答えなのだが、こう言うだけでは納得できない人もいると思うので、私なりの理屈を述べていこう。


 私は男女間の平等にはもう一つの道というか、考え方があり得ると思う。男女が平等に " 不自由 " を引き受ける、という方向性だ。
 
といっても、従来の意味での男女平等(いわば「平等に自由」を目指す方向性)を断念しようと言うのではない。それは可能な限り達成されるべきなのだが、それでも解消しきれない性別に伴う制約は、男女それぞれが一定程度「仕方ないこと」として受け入れる、その負担割合を平等にしようと考えるのだ。

 男性と女性が身体的にも心理的にも異質な存在である以上、どれほど法律面や制度面で平等が達成されようと、「男性であるがゆえに(女性と比べて相対的に)困難な点」も「女性であるがゆえに(男性と比べて相対的に)困難な点」も完全に消し去ることはできない。
 ならば、そこから先は考え方を反転させて、男女それぞれが「男性なりの不自由」「女性なりの不自由」をなるべく平等に引き受け、そのことを互いに了解し合うことで公平感を保つしかないのではないか。

 もっとも、性別に伴う負担の程度など正確に数値化して比較できるようなものではない。だから結局は「ほどほどのところで良しとしましょう」と言うしかないのである。
 

 これは一種の運命論的な考え方であり、男女どちらに対してもわかりやすく優しいものではない。性別に伴う苦悩を抱える人全員を漏れなく救えるものでもない。今すぐに大勢の人から支持を得るのは難しいだろう。
 
 それに、ここで私が提唱しようとしているのは、いわば「利害調整主義」とも言うべきドライな平等観である。
 さきほどから述べている通り、「性別に伴う困難や不均衡をとことん解消していくことが正義」だとする従来のジェンダー平等観には限界がある。
 それがある程度のところまで達成されたら、そこから先は、男女間の差異は差異としてそのまま受け止め、その上でいかに両者の利害やパワーバランスを拮抗させるか調整していく道をとる方が現実的だと思うのだ。
 こうした発想は、ジェンダーをめぐる問題について倫理的に「正しい解」を追求したい人たちにとっても、なじみにくいものかもしれない。

 しかし、男女平等と社会全体の安定や存続を両立させていくには、こうした考え方を取り入れていく以外に道はないのではないか。「優しさ」や「正しさ」はもちろん大事なのだが、それをどこまでも追い求めていては社会が回らなくなってしまうのだ。
 
 
 
前回と今回の記事を読みながら「言いたいことはなんとなくわかったけど、それって例えばどういうこと?」と思われた方も多いだろう。しかしこの件、一つ具体例をあげるにもかなり込み入った論述を要するし文字数も必要である。前回の冒頭で述べた通り、ここでは考え方の大枠を示すだけにとどめ、具体論については別の回に譲ろうと思う。

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