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【32】男性性も女性性も実在する 『ジェンダーと脳』批判(4)

〔前回の続き〕
 2つ目の論拠からも、「幻想」だと言えるのは ① の意味での「ジェンダー」のみだろう。「脳は様々な外的要因の影響を受けて変化する」とは言っても、脳にどこまでも無限の可塑性(かそせい)があるとは到底考えられない。変化できる幅には限界があるだろうし、変化しやすい資質もあれば、しにくい資質もあるのではないだろうか。

 個人レベルで考えても、人の内面というのは、生まれ持った資質がまずベースとしてあり、それに様々な外的要因が加わって形成されていくもの、というのが一般的な見方だろう。「男性」や「女性」という集団レベルでの心理的傾向に関しても同じことが言えるはずだ。ジョエルはこれについて以下のように述べている。

興味深いことに、脳全体の大きさを除けば、新生児では女児と男児のあいだ で脳の構造と機能にほとんど違いはない。脳の大きさは男児が平均して約六%大きいだけだ。ただし、このことはその後の人生においてヒトの脳に出現する性差があらかじめプログラムされていた可能性を排除するわけでは ない。思春期になるまで女性と男性の胸の形に違いはないことを考えればわかる。とはいえ、人生の後半になって脳にようやく現れる性差の少なくとも 一部は、女性と男性のそれまでの経験の違いの影響を受けているかもしれない〈注1〉。

ここで、女性と男性(未成年と成人)が異なる経験をすることによって、脳 が複雑な変化を遂げることを想像してみてほしい。人間社会では、女性と男性は生まれた瞬間から異なる取り扱いを受け、異なる行動を取ることを期待 される。それを考えれ ば、脳のある特徴、認知力、行動に女性と男性で違い が見られるとき、それが生まれつきの(前もってプログラムされていた)ものであるか、経験や外的要因の結果であるかを見分けることは不可能だ〈注2〉。

ジェンダーのかかわる経験によって脳は変わるが、このことは生物学的な 性別によって同じ効果が生まれる可能性を排除するわけではない。いずれ にしても、人生のより後期になってから現れる差異がジェンダーではなく 性別によって生まれると証明するには、ジェンダーのない世界で育ち、人生 をまっとうした女性と男性の脳を比較する必要がある。仮にそのような不可能にも思える実験を実行できたとして、その結果は何に役立つのだろうか〈注3〉。

 要するにジョエルは「脳に男女差が見られるにしても、それが生まれつきの性差によるものなのか、それとも経験や外的要因によるものなのか、知りようがない」という立場をとるのだが、それにしては(本書全体を通して)前者の寄与度を軽視し過ぎているように思える。
 「知りようがない」のであれば、生まれつきの性差の方が決定要因として大きい可能性は依然として否定できないのではないか。少なくとも、脳に可塑性があることをもって「男らしさ」や「女らしさ」を実態のない虚構かのように言うのは飛躍し過ぎであろう。

 平均的に言って男性と女性では、気質や好みや興味の対象から人間関係の作り方、性行動まで、様々な面で違いが見られる。その差異が全て社会環境によって後天的に作られているとは極めて考えにくく、男性が生まれつき持ちがちな傾向としての「男性性」や、女性が生まれつき持ちがちな傾向としての「女性性」は間違いなく存在しているのではないか。

 したがって、「男性性」や「女性性」(またその担い手としての「男性」や「女性」)といった意味での「ジェンダー」はかなりの程度生物学的な基礎を持つものであり、決して幻想でも神話でもないと思う。

 そして、すでに述べたように私は、ジョエルが唱える「ジェンダーに一切捉われない社会を目指すべきだ」「男性や女性という概念自体を解体すべきだ」という主張にも賛同できない。

 私は第1部でいわば「動物的な本能を生きる存在としての人間」について考えた。しかし人間は本能を生きると同時に文化を生きる存在でもある。他の動物の社会と異なり、人間社会で安定した生殖活動が行われるためには、男女の差異を文化的に強化・増幅する営みが必要なのではないかと思う。

 それに「男性性」や「女性性」というのは個人が人格形成する上でもなくてはならない観念なのではなかろうか。「男か女か」という二分法はたしかに人を型にはめたり生きづらくする面もある。
 しかしそうは言っても、世の中のほとんどの人は「自分は男である」とか「自分は女である」という自己認識を中心に据えないことにはアイデンティティーを形成・維持できないのではないか(「自分は男でも女でもない」という性自認を持つ人だって、「男」とか「女」という概念がなければ自分をそのような存在として規定できないはずだ)。

 そうした意味で私は、社会には今後もある程度「男性的な領域」と「女性的な領域」の分離があってよいと思うし、「これは男性的な振る舞い」とか「これは女性的な振る舞い」といったイメージが人々に共有されていてよいとも思う。また、「男性(女性)はこうあるべき」とまでは言わなくとも「男性(女性)はこうある方が望ましい」程度のゆるやかな方向性くらいは示されていた方がよいとも思っている。
 それに従うにせよ反発するにせよ、一つの参照点としてこれらの通念が今後も共有され続けるべきなのではないか、私は今のところそう考えている。



〈1〉ダフナ・ジョエル、ルバ・ヴィハンスキ『ジェンダーと脳 —性別を超える脳の多様性—』鍛原多恵子訳、紀伊國屋書店、2021、kindle版、No.302
〈2〉前掲書、No.310
〈3〉前掲書、No.380

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