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舞台 「ガラスの部屋のミューズ」 観劇レビュー 2020/10/18

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公演タイトル:「ガラスの部屋のミューズ」
劇場:恵比寿エコー劇場
作:島ハンス(劇団ヤリイカの会)
演出:中屋敷法仁
出演:玉田志織、永田聖一朗、前田悠雅(劇団4ドル50セント)、牧田哲也(劇団柿喰う客)
公演期間:10/14〜10/18
個人評価:★★★★★★★☆☆☆


「日本の劇」戯曲賞2019を受賞した劇団ヤリイカの会主宰の島ハンスさんの作品に、劇団柿喰う客の主宰中屋敷法仁さんが演出に加わり、豪華キャストを迎えての公演ということで観劇。
座席数を1/3以下に減らしている中、千秋楽の最前席中央という最高のポジションで観劇することに。
もはやアートと思わせるような舞台美術にまず魅了された。中央の直方体のガラスのボックス、舞台後方の透明ガラス鏡を一面に貼ったシンプルな舞台装置なはずなのに、滑らかな役者の演技とカラフルな照明が差し込むと、あそこまで綺麗な芸術作品に見えるものかとワクワクした。
脚本は戯曲賞を受賞しているだけに素晴らしかった、歴とした不条理劇なのだが人間誰しもが持っているプライドや欲望をあそこまで上手くメタファーを用いながら人間臭く演出されていて、観ているこちら側まで精神を抉られる。
この作品はもっと色々な人に知ってもらいたいし観てもらいたい、再演を強く望む一作だった。

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【鑑賞動機】

観劇の決めては、キャスト陣と演出家。劇団ヤリイカの会という劇団は今まで知らなかったが、不条理劇と会話劇を組み合わせた作品に挑む劇団らしく興味をそそられた。


【ストーリー・内容】(※ネタバレあり)

舞台中央のガラスのボックスに一人の少女が閉じ込められている、名前を真栗ルネ(玉田志織)という。そこに一人の青年がやってくる、彼の名前は堀照穂(永田聖一朗)といいテルホと名乗っている。彼は美大生であり、大学院に進学することになっていた。彼は動物園のサルの山の前で彼女に出会い、そのまま彼女の家にきた訳である。
しかし、どうやらルネの家は冷蔵庫や電子レンジなどが置いてあるにも関わらず、自分で料理をしたりしない模様である。それに、ルネは自分の家の鍵を持っていない模様でどうやって生活しているのか謎に満ちている。
テルホはルネとの会話で、彼女の父親はどうやら亡くなっていることを知る。そしてその父親の亡くなった日や置かれた境遇から、彼女は日本を代表する画家・木皿霊央の娘の一人娘・楚和なのではないかと疑い始める。テルホにとって木皿霊央は芸術家として憧れの存在であり、彼の後継者として自分も画家として成功したいという強い夢を抱いていた。そこでテルホは執拗にルネに木皿霊央の娘ではないかと尋ねるが、「さあ?」とすっとぼけた返答しか貰えずにいた。そして、彼女を絵画のモデルにして描きたいと懇願するもなかなか引き受けてくれずにいた。

そんなルネの家へ一人の女性が入ってくる。彼女の名前は安堂数理(前田悠雅)でスーリと呼ばれている。彼女は東大農学部の理系大学生で浪人一年と留年一年をしている。彼女は昼間は大学へ通って植物を育てながら研究をしていた、その片手間でギターの弾き語りを練習するというアーティストでもあった。そしてスーリは、その弾き語りの練習を夜の公園でしている間ルネに出会った。それからスーリは、毎晩のようにルネに料理を作ってあげる存在となっていた。
そんな状況を聞いたテルホは、学生をしながらアーティストとして活動するスーリの存在を馬鹿にし対立した。
テルホはスーリに、ルネは木皿霊央の娘なのかを尋ねると、スーリは以前ルネにその話を聞いたことがあるがその後突然気絶して病院送りになったのでそれ以後聞いていないと話す。そこで、テルホはやはりルネは木皿霊央の娘なのだと確信に変わっていく。
スーリはルネのために料理を始める。

そこへ今度は一人の男性が入ってくる。彼はどうやらルネの亡くなった父の弟の叔父(牧田哲也)らしい。
テルホは彼に尋ねる、ルネは木皿霊央の娘であるかと。しかし叔父はそれを頑なに否定する。そして叔父は語り出す、木皿霊央の死んだ日とルネの父が死んだ日が一致しているからと言って、彼女を楚和であると断言するのは時期尚早だと、同じ日にちに亡くなっていく人間はこの日本に五万といる、楚和の顔を見たこともないのにルネを楚和だと決めつけることも同じ、スーリがルネの前で木皿霊央の話をして気絶したのも偶然かもしれないと。
そして叔父はテルホに対して続けてこう言う、テルホ自身はサルの山の頂上で自慰行為をするサルと同じで、ルネという女性を木皿霊央の娘に仕立て上げて彼女をモデルに絵画を描くことで木皿霊央の後継者を名乗って名声を上げたいだけなのだと、ルネは人形でしかない彼女を利用して自分の承認欲求を高めたいだけなのだと。
そこにスーリも入ってくる。叔父はスーリに向かっても、お前もテルホと同様でルネのことを恋愛対象として愛しているにも関わらず、そのことをルネ自身に伝えようとしない、それは自分が傷つきたくないというひ弱な心から来ているのだと、自分が一番可愛いのだと、だから結局ルネを利用しているだけなのだと。

それに対して、テルホが反論する。では、叔父自身はどうなのだろうかと。叔父は家の鍵を管理していながら、ルネ自身をいつも手放しだった。料理ができない、何もできない娘にしてしまったのは叔父の責任、スーリを家に連れ込んだり、テルホを家に連れ込ませたりしてルネを勝手にどうぞとばかりに放置させているのは叔父自身だと。そんな叔父こそルネを餌にして楽しんでいるだけなんじゃないかと。

最後にルネはこう呟く、「私は裸で、床に横たわってそこに一匹、虫がくる。虫は餌を求めて部屋中をさまよい、やがて私の存在に気づく。そして恐る恐る近づいて、指先をかじる、わたしは動かない、指先をどんどん食い進め、しまいには手のひらに達する、いつの間にか増える」
ここでストーリーは終了する。

物語終盤まで進めば、この作品が主張したいことは凄く分かってきた。人間は欲の塊のようなもの、その欲を達成させるためにミューズを探し求める。それは芸術家だって親だって恋人だって同じかもしれない。そこにつなげるメタファーが秀逸、サルの山の頂上で自慰行為をするサルはまさにテルホそのものだったし、ルネにまとわり齧り付く虫は、彼女をミューズとして利用しようとするエゴに満ちた人間そのものだった。
島ハンスさんの脚本は凄く人の心に刺さる作品を作り上げる方だとしみじみ思った、「日本の劇」戯曲賞をとるだけの人物である。

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【世界観・演出】(※ネタバレあり)

中屋敷さんの演出とあるだけに、舞台美術・演出共にハイクオリティな芝居だった。

まず舞台美術だが、舞台装置自体は至ってシンプルで、中央に直方体のガラスのボックスが置かれていて、基本的にルネはこの中で閉じ込められているかのようにクネクネ体を動かしながら演技する。しかし、ここに色とりどりな照明、特に青や黄色い照明が当たることによってこのガラスのボックスは芸術作品と化す。このガラスのボックスが物凄く魅力的に映って、作品全体の美しさを象徴している様でもあった。
また、舞台後方に一面に貼られた透明ガラス鏡も凄く印象的、基本テルホやスーリは透明ガラス鏡の後ろ側で演技をすることが多い作品だったのだが、鏡の向こう側で演技をしているとどことなく舞台というよりも映画をみているような遠い存在に感じられる。一番前方の座席で観劇しててもだ。これは、以前観劇したオーストラ・マコンドーの「someday」という芝居を思い出す。

音響も迫力があった。音楽はクラシック音楽がメインだったが、客入れと終盤以外は特に使われていなかった印象。それ以上にSEのインパクトが大きかった。緊迫感の張ったようなキリキリとした心臓に刺激してくるようなSE、またSF映画に登場しそうな「ビョーン」といったSEが舞台全体を恐怖に陥れる意味で凄く効果的だった。

演出部分でいうと、物凄く役者たちの滑らかな演技が舞台美術の角ばった印象と対比して凄く脳裏に残る印象だった。特にルネの演技の滑らかさ、しなやかさは見ててうっとりしてしまうほどの柔和な美しさを存分に発揮していた。まるで芸術作品であるかのように美しく。そこは中屋敷さんも演出として意図している箇所だと思うので、凄く舞台にハマった演出だったと思った。
それと、ガラスのボックス越しで鏡のように二人の役者が同じ動きをする演出が妙に印象に残る。あの動きも凄く滑らかで印象に残っている。

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【キャスト・キャラクター】(※ネタバレあり)

4人のキャストがそれぞれ個性を持っていて、その個性が舞台上で凄くマッチした作品だった。

まずは、ルネ役の玉田志織さん、彼女はまだ18歳ととても若いようである。その若さを上手く生かして透き通るような魅力的なミューズを演じきっていた。他の3人に比べて台詞の量は少ないかもしれないが、結構難しい役だったのではないかと思う。柔和に体をクネクネさせながら演じなければいけないという身体表現的な側面もあるが、まるでブラックホールのような瞳で人々を魅了するが恐ろしさを感じさせる様な、いわばアンドロイドのような少女を演じ切ることは凄く役作りが難しいだろうと思う。そこを上手く演じきっていたと言う点で今後の女優としての活躍が楽しみである。

次にテルホ役の永田聖一朗さん。まず彼の台詞の量はとんでもない。ほぼほぼ舞台中に出演しているので喋りっぱなしの75分間だっただろう。ほぼ会話劇なので、途切れることなく台詞を覚えて発していた彼の役者としての力量に感嘆した。そして役柄でいうと、若造にも関わらずプライドの高い芸術家な訳だが、そのなり振りや個性も一致していて違和感なく観ることが出来た。

スーリ役の前田悠雅さんも、理系学生と謳っていながら東大生としてのプライドも高く芸術にも精通している点がテルホと凄くよく似ていて、劇中で叔父に指摘される前からずっとそう感じていた。そういったキャラクター設定を上手く反映させた役作りがしっかりと出来ていて良かったと思う。
そして、なんと言ってもラストのシーンのルネを思いながら「彼女を早く病院へ連れて行って」と涙目ながら叫ぶシーンは凄く心動かされた。冷徹なようで実はルネに対して恋心を持った優しい女性であったこと、ルネのことを一番よく考えて愛していたのは彼女であったことがひしひしと伝わってきて、この作品で一番感動できるポイントをしっかりと演じ切ってくれていた。

最後に、叔父役の牧田哲也さん。彼の落ち着いた貫禄のある演技は、他の若い俳優3人とは一線を画していて凄く目立っていた印象、口髭も相まってそう感じたのかもしれない。しかし彼の放つ台詞にはかなりの毒が仕込まれている。この脚本の本質でもある、人間の愚かさ、欲とプライド、そしてミューズを利用するずる賢さ。そんな人間臭さを語り尽くすだけの悪役とまでは行かないけど、物語のキーマンとなるような台詞と存在感がこの作品を作っていると思ったし、彼の演技が凄くマッチしていると感じた証拠でもあった。

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【舞台の考察】(※ネタバレあり)

今回は、「日本の劇」戯曲賞を受賞した脚本の本質について考察していく。

人は誰しもプライドを持っていると思う、なぜなら過去の自分の経験を肯定したいから。自分で決めた道に沿って努力してきたことをあっさりと否定されたくはない。だからプライドという形でその努力を守ろうとする。
今回の作品に登場する、テルホは芸術家として一応努力してきた身である。美大生として大学へ通ってその芸術としての美を突き詰めてきたはずである。だからこうもあっさりと芸術を否定されたくはない。スーリは、理系大学生として学業に励みながらギターの弾き語りという芸術を片手間で行っていた。
テルホとスーリはどちらも譲らずプライドが高かった。テルホは芸術一筋という点にプライドを感じており、何か他のことと両立する人間を遠ざけた。スーリはスーリで、研究ということに対してプライドを持っていた。植物を育てて観察し研究することに意義を見出し、馬鹿にされたくはないといきっていた。
この気持ちは、どんな職種であれ共通して存在するものなのではないかと思う。このプライドが人間たらしめるものだと思うし、自己実現に向けて必要不可欠なものだと思っている。

では、ミューズの存在はどうなのか。テルホは叔父から、ルネを自分の自己実現のための道具としか見ておらず、ただ利用したいだけだと暴露されていた。しかし最後にテルホはこう言い返す、「でも、彼女はミューズです。その存在自体が芸術家に力を与えるんだ。だから僕が一生、彼女を描き続けます。」と。
ここからは個人的な解釈になるが、作者はこの作品を通して別にプライド高く生きることが悪であるとか、ミューズを利用することが悪であるとかは言っていないのではないかと思っている。確かにルネは、料理も何も出来ないかもしれない、しかしテルホには芸術家たらしめる希望を彼女は与えてくれる。
これは世間一般に置き換えるとこう解釈もできる。世間にはアイドルやモデルたちが沢山存在する、彼女もしくは彼らは魅力的な美貌を持っているだけで社会に対してなんの技術的貢献はしていないではないかと思うかもしれない。しかし、彼女もしくは彼らは周囲の人たちに希望を与えてくる。そう言った意味で十分存在している価値がある訳だし、それで良いのだと。

この社会は、プライドと欲求に塗れていて、人が人を利用したり利用されたりする人間臭いものなのかもしれない。それでも利用される側は決して無価値なんかではない、利用した者に対して貢献する価値のある人間である。
つまり、この作品はこの世に存在するミューズたち、つまりモデルやアイドル、俳優、アーティストたちに捧げられたエールのような作品なのではないかと解釈した。周囲の人たちに希望を与えてくれるだけでミューズたちは十分存在意義があるってことをこの作品は訴えているように私は感じた。


【写真引用元】

Twitter 島ハンス
https://twitter.com/yariika_hans
Twitter ステージナタリー
https://twitter.com/stage_natalie

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