見出し画像

新しい言葉、新しい距離感


暗い気持ち吐き出し系のツイートにはいいねだけつけるとに決めた。マイナス感情にいいねをつけるって変だけどTwitterなら変じゃないからその常識がずれる瞬間の変さを体感したいし。


Twitterのいいね、SNSのいいね、「いいね」って、新しい距離感ですよね。

生きているといろんなものに心惹かれたり、何かを気に掛けたりしている。でもそのすべてが行動に出るわけではない。

だけど、SNSならその心の動きが可視化されるわけですよ。いいねをする方も、いいねをされる方も、それを端から見ている人からも。

SNSの「いいね」が、賛同や賞賛の意味からずれていくとき、そこに新たなコミュニケーションが生まれます。

いいねして、いいねを返されて、でもお互い一言も会話しない、リプもしない、というような距離感が生まれるわけで、それを心地よいと感じる人もいるわけです。

上の僕のツイートは、「死にたい」「しんどい」などの暗い気持ちを吐き出すツイートへの関わり方です。

ネ友がしんどそうなとき、もちろんリプしてあげてもいいんですが、どうリプしてあげたらいいのかわからない。いいねだけつける。

リアルで「死にたい」と相談されて「好いですね~」と言ったらただのサイコパスですが、ネットのいいねは違う。

既読、心配、気に掛けていること、死にたい気持ちの肯定、寄り添い。

「いいね」の意味はそんな広がりと、受け手によって自由に解釈できる何かを持っています。

どんなつもりの「いいね」なのか、はっきりわからないことの心地よさ、わからなくてよいことの安心感。

現代の冷めた距離感の中のあたたかさ、キャッチーなハートマークの裏にある無限の解釈。

それを言葉にしてしまわない、多くを語らない、あくまで記号の中で収束させる。

ピノキオピーというアーティストはこの距離感の表現に関して天才的だと感じる。



手前味噌にはなってしまうが、私の以前詠んだ短歌にもそのシンプルな色使いが、斜に構えているのでもまっすぐ立っているのでもない、ねじれの位置にいるような微妙な感情の角度が現れている。


ひとり2時、新聞配達バイク去った。
「寝れない」いいね、まだ大丈夫。


寝れないことが「善い」わけではないのだが、いいねがつくこと自体、同じ深夜の時間帯に、この日本のどこかでまだ起きている人がいることを示している。

自分だけではない、この安心を感じることが、たいそうな文学作品を通さずとも、お金を払ってアーティストのライブに行かずとも、リアルタイムに送られた記号ひとつで達成される。

新聞配達、つまり「ちゃんと働いている人」の音には孤独を感じ、同じ深夜にTwitterを眺めている同志には安心を感じる。

ただ同士といえども、自分と相手の境遇はまったく異なるはずだ。自分はニートで相手は夜遅くまで勉強する受験生かもしれないし、自分は不眠症で相手は夜中にアイデアの湧いてくるクリエイター業かもしれない。

その「違い」が、リアルなら嫌というほど突きつけられる。意味のない劣等感に苛まれる。

ここに、感情を「状況」や「理由」ではなく「無限の解釈を持った記号」として表すことの真価がある。

各々の複雑な感情という大きな広敷の模様の中から、同じ色をした一点だけを針で通して、それをいくつも連ねるような所業だ。

その中には、ピノキオピーの楽曲にあるような「嘘」も含まれていて、嘘を針と糸で連ねたものが「嘘ミーム」になるのかもしれない。

差異を超えた、バーチャルだからこそできるコミュニケーション。それは確かに私たちにとっての心のよりどころだ。

しかし、その先にあるのは、差異に過敏になり、よりリアルに躓く未来かもしれない。

果たして「温かい『本当』」はどこにあるのか。

僕らの未来は「温かい嘘」だけで満たされてしまうのか。

どうだろう。

もらったお金は雨乃よるるの事業費または自己投資に使われるかもしれないし食費に消えるかもしれない