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忘れたくないこと。

ニコニコして明るいばあちゃん。

私の両親は共働きだったが、学校から帰れば
同居しているばあちゃんが家にいた。

よく電動自転車の後ろに私を乗せて、スーパーへ買い物に行った。
甘い玉子焼きやだご汁、味付けのりで巻いたおにぎり、煮物、高菜、他で食べたことのない肉のオムレツ…
「ご飯できたよー!!」と1階のキッチンから呼んでくる声
私はばあちゃんのご飯が大好きだった。

春は土筆を取りに近所を散歩して、
花火大会のときは浴衣の着付けをしてくれた。
ばあちゃんの好きな花はコスモスと言ってたね。
大正琴やフラダンス、旅行と、趣味が多くてよくお友達とも電話してたね。
一緒に東京とディズニーランドに行ったときは、私や姉よりも元気に歩いて驚いた!

学校で悲しいことがあった日、お風呂で
「良いことも悪いことも人生は半分ずつ。だから次はいいことがあるよ」
そう言ってくれた言葉は私の格言になっている。

社会人になって、私は地元を出た。
母よりも、ばあちゃんの方が気にかけて電話やメールをくれて
野菜やカップ麺も送ってくれた。

会社を辞めて戻ってきたときもおじいちゃんと優しく迎えてくれた。
次の仕事で終電帰りだった日々も、ご飯を作って待ってくれたね。
こうやって思い返していると、自分がどれだけばあちゃんっ子だったかということが今になってわかりました。

再び実家から一人暮らしを始めるときの
「がんばってね」というあの笑顔は忘れない。
その頃から認知症が始まったみたい。
たまに帰って話す分には信じられなかった。

しかし次第に症状が酷くなってきた。
85歳のおじいちゃんが浮気しているという妄想をしたり、お漏らしをしたり、目を話すと外に徘徊していたり…
以前は毎朝ばあちゃんが掃除していた家も、糞尿の臭いが漂い汚くなった。
家族も疲弊するほど、介護は大変そうだった。

でも、幸いなことに暴力・暴言はなく
ばあちゃんはいっつもニコニコしていた。
自分の取柄である愛嬌は、この人譲りだったんだ。
父の名前は忘れても、私の顔と名前は認識してくれていたのが嬉しかった。

ついにばあちゃんが施設に入居した。
ばあちゃんのいない実家は少しだけ暗くて静かだ。
ずーっと一緒に過ごしていたじいちゃんは
寂しそうに、一人でただ毎日テレビを見ている。

体調不良を移すのが恐くて、ちゃんとお別れができなかった。
遠方に住んでいるので、なかなか会えないのがもどかしい。
ばあちゃんはまだ、生きている。
ただ、もっと会話したかったな。
戦時中のことや結婚前の恋愛話を聞いてみたかった。
大切な人も直接紹介したかった。

当たり前のようにばあちゃんと過ごした日々が
今ではとっても愛おしくて
会いたくて会いたくてたまらない。

忘れたくない思い出をここに綴りました。

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