未題作

君は夢遊病者のふらふらとした覚束ない足どりで階段を上がっている。焦らなくていい、一段いち段、紙を数えるように階段をあがるのだ。別に酔っているわけではないが、躓かないに越したことはないだろう。

最後の一段は踏まずに跨いだほうがいい、骨が擦れたような軋み音で屋敷の主人が眼を覚ますと厄介だ。何故なら、君は君の人目を憚る行動を誰にも見られてはいけないのだから。

薄暗い廊下の正面に立った君は、あたりの静けさに不穏な空気を感じて様子を窺うが、誰もいない。今そこには君しかいないのだ。君以外誰も、君というひとりの人間以外、誰も、文字どおり誰も、誰もいるはずがないのだ。

虚ろに口をあけた廊下を真っ直ぐ進むと、一番奥まった左側の部屋から斜めにひと筋、明るい光が洩れていることに気がつくだろう。君は扉に手をかけ、周囲を警戒ながら音を立てぬように細心の注意をはらい、ゆっくりと扉をひらく。君は影に身をひそめて音もなく部屋に入り、後ろ手で扉をしめる。

夜の冷たい空気に包まれて物音ひとつしない。

部屋の奥には赤、青、紫、緑、黄、と色鮮やかなステンドグラスがはめ込まれた、教会を思わせる大きな窓が目に映るだろう。両側には一面に書棚が聳えていて、古い海外の文学作品が所狭しと埃をかぶり、眠っている。室内にも人影はなく、君は高い天井から吊り下げられたシャンデリアから神の御心のような光を浴びているが、背後の扉に磔にされている自分の影には気がついていない。

他に家具らしい家具はなく、君の視線のさき、窓の近くに三本脚の丸いテーブルがあるだけだ。その上になにかが置いてあることに気がつくが、君はそれが何なのかわからない。

近づいてみると、羊皮紙のようなもので、そこには黒い字で君の名前が書かれている。なぜ、自分の名前が書かれているのだろうと君は考えるが、思い当たる節はない。

途端に恐ろしくなって後ろを振り向くが、何もいない。安堵する間もなく部屋を出ようとする君の頭上で、天井の木材のひとつがこの世のものとは思えない鳥肌の立つギイイイイイという呻き声をあげながら、横にずれ始める。背筋のゾッとする思いに駆られた君は考えるより先に逃げ出そうとするが、恐怖で脚が石像のように硬直して動けない。



※この作品は作者の死で、未完のまま終わる。


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