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道徳の詰め込み教育による人間否定 文明と文化と野蛮について 1

道徳の詰め込み教育による人間否定 文明と文化と野蛮について
 現代の国学
「やまとこころ」と近代理念の一致について                
第二章 宗教とは何か? 啓蒙との本質的な違いについて

己を権威に支配させることが道徳の本質であるが、宗教権威による道徳の刷り込みの中で最も有名なものは中世のものではない。ハビトゥスを提唱した社会学者ブルデューの出身国のすぐ隣、ライン川を挟んだ東の土地の、一九三〇年台における洗脳教育は何よりも苛烈なことで有名だろう。

ナチスは子ども達を幼少期からナチスが規定した作り物の観念世界で生きることを余儀なくさせるために、ヒトラー・ユーゲントに強制入隊させていた。子ども達はナチスによって生活の全てが規定されてしまう一種の宗教原理主義的な閉鎖空間の中で生活することになる。

「空気に従わされる」という言葉もあるが、この閉鎖空間はナチスの空気で満たされた「ガス室」であって、息が出来ない程に強烈な圧力が個々人の肉体と精神に掛けられることになる。こんな状態であったとしても、権威への服従を正当化するために、大体の子どもは権威を正しいと妄信してしまうのだ。

このガス室ではナチスの戒律の通りに行動し、ナチスの教義を追認させること以外は覚えさせられない。戒律に抗議したり、教義に疑問を持ったりしたならば大怪我をするどころでは済まなかった。抵抗や疑問に思う力を獲得し、その結果として大人になるといった機会は絶望的なまでに存在していない。敗戦後にすらナチスの問題を認識出来ないナチスの元親衛隊員が存在しているのは、思考能力や現実認知能力を破壊するための洗脳が幼少期の彼等に徹底的なまでに施されているからであろう。

戦前の「鬼畜米英」という標語は米英を一体視していた点において愚かであったが、ナチス親衛隊のような「家畜独兵」はそれ以上に愚かな存在である。ナチスには人狼団という組織も存在していたが、彼等のような畜生道は、野犬というよりも飼い犬に過ぎないが、狂犬病に罹患していることだけは確実だろう。

ガス室の中では、思想的な独ガス(誤字ではない)が脳細胞を変質させ、人間の愚かさと軟弱さをこの上なく深化させてしまうのだ。現実を観察するよりも権威の言うことを無警戒に信じること、判断を停止して全てを権威に服従すること、思考の放棄が徹底的に強制されることによって、脳という量子回路が丸暗記しか出来ない粘土板へと劣化していく。

このナチスのガス室では、禁煙やら動物愛護やら菜食主義など、一見すれば是に見えるキレイゴトが、「観念的論思考」しか出来ない人間には大受けするような不寛容なまでの健康主義のサラダが、これでもかという程の高さに盛り付けられている。言うまでもなくこのガス室のサラダのアスパラガスは、ナチスの観念的正当性を演出するための偽善でしかない。これらは、ナチスの暴力は手段としての必要悪であって権威による独裁的な暴力体制を肯定すべきである、というナチスの欺瞞的な正当性を刷り込むための福祉政策である。

若しくは、主体的・人為的・随意的・意識的な芸術を創れない彼等は野放図なる自然を愛することしか出来ないが故に、存外に本気で自然保護を試みていた可能性もあるかも知れない。これをして、「緑の儒教」か「ユダヤ人以外への生類憐みの令」であると呼ぶことも問題ないだろう。人種主義者のヒトラーは、「ユダヤ人が貧富の格差を造り出している」などと述べ、ユダヤ教ではなくてユダヤ人を虐めの対象にしていたが、ゲルマン民族の富豪にはどこまでも甘かったことが事実だ。

ゲルマン民族という単語はプロイセン貴族の対義語であるとは先述したが、ゲルマン民族の総統のヒトラーがユダヤ人の次に攻撃した対象がプロイセン貴族であったことも実話である。ナチス親衛隊については、ゲルマン民族ではなくて、ゲルマン民賊とでも呼べばいい。貴族に逆恨みしてユダヤ人に嫉妬した彼等は、公共性を持たずに見栄張り競争に勤しむこと以外が何も出来なかった。

浅ましい彼等は自ら以外を認められず、他人が称賛されるということが精神的に耐えられなかったが故に、自らと異なる者を排除しなければ気が済まなかったのかも知れない。とはいえ、人間社会は異なる存在が一つの結果のために存在するが故に機能するものであって、集団を同じ存在に統一して纏め上げることでは、停滞以上を生み出すことは無い。

斯様な状態を見る限り、自己放棄して群れることにしか興味がなかった臆病者の集団がナチスであったと言えよう。自然主義も勤労カルヴィニズムもナチズムも、自らによって結果を動かそうとすることではなくて、権威への同化願望の発露でしかない。自己自認が自らの「個の意識」ではなく、所属する民族に自己承認やら誇りやらを持つというのは大変に情けないことだ。公平性を否定することを信仰し、向上心なき競争心しか持ちえない彼等は、世界大戦に勝てるわけがないだろう。

ヒトラーが何と言おうとも、こうした軟弱さは「個の意識」を尊ぶヴァイキングやローマ人の価値観とは最も遠いものでしかない。彼等には文明の継承という人間的な要素が欠如しているが故に、人種という生物学を偽装した観念を造り上げ、そうした動物的要素を徹底的に信仰することにしたのかも知れない。機能よりも形態を重んじるだけのナチスドイツと支持者達は、人間と交配出来るだけの畜生道のド汚物でしかなかったのだから、彼等が動物愛護に熱心なことも必然であったのだろうか? 

今日においても、ドイツは人間理念よりも自然主権を選択し、知性よりも野蛮さを信仰しているように見える。これは、災害の化身であるヤマタノオロチを殺し、自然を調伏させて国を造り出す、日本人の環境を活用する統治者意識の対極だ。主役は人間であり共同体であり国家であるのが日本的な価値観であるが、ドイツにおいては自然と権威こそが人間の所有者であり、それ故に人間は自然に融合すべきとでも考えられているのだろう。これをして、「非人間主義」と呼んでも何ら問題はない。

そういえば、化学肥料の量産プロセスを造ったのはフリッツ・ハーバーというユダヤ人である。ユダヤ人達が迫害されたのは、ドイツの自然に背いたという罪によるものであったのかも知れないが、自然に全てを任せることを信仰するゲルマン民族は、動物的思考停止を起こした全体主義的な畜生道である。

文明を破壊しなければ気が済まない野蛮人であったという点に関しては、ヒトラーもポルポトも完全に同じだろう。工学の放棄とは人為性の否定でしかなく、世界には人間が行わなければ成立しないことが多々あるという事実を見逃している。人間による創造を否定するゲルマン民族が、戦争という総合芸術において勝てるわけがない。不公平と恣意性と非合理を信仰するならば、理性も感性も破壊されて、機能美のない暴力を無駄に繰り返すだけだろう。政治哲学も科学技術も分からないロマン主義者達はこの世で最も醜い存在に過ぎず、創造的暴力は破壊的野蛮力とは完全に異なったものである。

自然保護を訴える宗教団体が中世的なカルト村を作ることはしばしば見られるが、アメリカの建国もそうした要素が強かった。筆者は、ナチスもそのようなカルトの一派であると考えているが、その規模は途轍もないものであった。現代のアメリカのカルト村はドイツ系アメリカ人によって形成されていることが多く、彼等はヨーロッパでは失われた古いドイツ語を未だに使用している。彼等は、本質的に科学技術を使わないことを追求する集団であって、宗教権威を妄信して全面的に服従し、実体を無視することを選ばない者を、悪魔扱いすることしか出来ない。これこそがまさに「永続中世論」というものだが、日本の元財務大臣やその周りの省庁も出世すること以外は何も出来ないのだから、これと似たような儒教村だろう。言うまでもなく、儒教村の母親たちは、子どもを出世させること以外には殆ど何にも興味を持っていないし、その実においてこの村の母親達は、自らが世界で一番偉いと考えているのだ。

知的好奇心を持たずに権威に従順であることを尊ぶ社会は、「Village」という映画の村のように自閉すること以外は何も出来るわけが無い。自らと異なる他者を否認し拒絶しないことは何よりも危険であると彼等は考えているのだろうが、こうした安心至上主義こそが究極の危険である。斯様なるゲルマン的反知性は文明への恐れであるとしか言いようが無いが、彼等は未だにローマ的なものを嫌悪しているということなのだろうか? 

ナチスによる禁煙については、芸術的センスだけではなく科学的思考力も十分に持たないヒトラーが、タバコの副流煙がナチズムという毒ガスを中和する可能性を危惧したのかも知れない。ナチスはユダヤ人を毒ガスで物理的に絶命させるだけではなく、全世界の人間の思考力を催眠ガスで窒息死させることを企んでいたのだ。忖度を誘発させるための洗脳と様々な種類の不寛容の弾圧を併用すれば、殆どの人間の思考を酸欠に追い込み、ナチスに隷属させることも簡単なことだ。

彼等が支配する世界は巨大なガス室であって、そこではヒトラーの好物のアスパラガスを食べることが出来たとしても、物理的にも精神的にも息が出来るわけがない。そして、自然保護活動家である以上に白人至上主義者であったヒトラーは、おそらくはグリーンアスパラガスよりもホワイトアスパラガスを好んだことだろう。

とはいえ、タンパク質が無ければ脳が育つことは無く、野菜と炭水化物だけでは思考を伴わないエネルギーしか出せないことは事実である。ナチスとは、人間の意思を否定するために自然を肯定していただけのカルト集団に過ぎないのだから、人間の思考力を破壊するために彼等は菜食主義を進めていたのかも知れない。

斯様な目的を持ったナチスが創り上げる規則は、法律という規律ではなくて信仰に基づいた戒律でしかない。実際にヒトラーは全権委任法によって憲法を停止させていた上に、その後にも王権神授説的な宣伝を行っていた。憲法とは国家における指揮系統の適格性を担保するものであるが、戦下手のヒトラーには指揮系統の重要性が理解出来なかったのだろう。

民族主義とは、国家に貢献することではなく、政治的首長という属人的権威に忠誠を尽くすべきという思想である。長老の言うことは絶対という序列と同調の個人崇拝は、ヒトラーやトランプ前大統領が喜ぶ道徳であったとしても、そうした野蛮さは合議を破壊して独裁を発生させ、その結果として国家公共を完膚なきまでに崩壊させる。

日本やイギリスの立憲君主制は、このような序列的社会とは全くの別物であることは言うまでもない。言うまでもなく、プロイセンの啓蒙専制君主も文明世界の王であって、ナチスの総統のような森のボス猿とは完全に異なった存在である。群れへの同化を信仰するゲルマン民族と、社会契約を重んじるプロイセン人は、人種はともかくとしてその精神構造は完全に対極的なものだ。

「宗教はアヘン」という格言を考えれば、「ナチズムはヘロイン」と呼ぶことが適切だろう。かのプラトンは、人間を閉じ込める誤解や迷信のことを「洞窟」と暗喩していた。観念的な煽動を行う宗教が「アヘン窟」を作り上げるものであるとすれば、ナチズムというヘロインは人間の世界を「ガス室」に変える。人間には電子顕微鏡を使わないとわからないことも多く存在するが、このガス室の中では目で視て分かることすらわからなくなってしまうのだ。

ちなみに、ヘロインという化学物質はアヘンを基に化学合成によって製造するものであって、ドイツのバイエル社が精製法を確立したものであり、気分を昂揚させる作用ではなくて、鎮静させる作用を持っている。つまり、これはドイツロマン主義の酩酊の類似品であるということだ。自分が気持ちよくなりたいだけのゲルマン民族には、まさに効果覿面の薬物であると言えるだろう。ドイツのアーヘンの温泉は、ゲルマニウムの濃度とゲルマニズムというヘロインの濃度、どちらの方が高いのかが心の底から気になるところだ。

筆者はムッソリーニを肯定するわけではないが、ファシズムとナチズムは別物であるし、ヒトラーの演説にはムッソリーニの演説に見られる意気揚々たる陽気さは存在していない。被害妄想的で御涙頂戴の演説を好んでいたゲルマン民族には、「悲劇のヘロイン」願望があったのだろう。

若しくは、他民族にマウントを取りたいだけのビーダーマイヤー向けにマーケティングを行った結果がこの陰鬱さであるのかも知れないが、それならば美大に落ちたヒトラーは麻薬の売人としては大成功したと言える。事実よりもお気持ちを優先する演説を行えば、ロマン主義者達を扇動することなど容易いことでしかない。

おそらく、ヒトラーはユダヤ人を絶滅させること以上に、ユダヤ人を抹殺することを通して科学技術を根絶させることに拘っていたのだ。彼の演説を見れば、理解によって成立するのが文明であって、煽動によって成立するのが野蛮であるということが一目瞭然である。知性を尊ばず、言葉を疑えず、実体を観察することを忌避しているゲルマン民族の本質は、野蛮そのものであるだろうが、それはルターを見ても明らかなことだ。

「鷲のマークの大正製薬」はファイト一発で有名だが、ヒトラーの「鷲のマークの第三帝国」はヘイト連発そのものでしかなかった。ヘロインという幻覚剤は、使用するだけで多幸感を生む性質を持っていて、中毒性が高く、活力を殺すと言われている。日本人が好むものはファイト一発の「あらみたま」の突破力であって、それはヘロインの性質とは対極的なものであるが、陽気な文明人は陰気な野蛮人の真似をしてはならない。

「あらみたま」とは、実体に基づいた明るさと血を滾らせる猛々しい向上心であって、これはヘイト連発の「悲劇のヘロイン」願望とは対極的なものであることは確かだ。激情にただ呑まれることではなくて、それを活かして実体に己の決断を徹すものが、「やまとこころ」の本質だろう。ロマン主義的な夢遊と無力主義の酩酊の化合物、自己陶酔とヒステリーの合成ドラッグは、日本のヒストリーには存在していない。


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