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儒教は日本の非伝統

 
 現代の国学
「やまとこころ」と近代理念の一致について 
第一章 人間と宗教と啓蒙の歴史

儒教は日本の非伝統
 
古来から、日本は海外から有益とみなしたものを積極的に受け入れる風習があった。だが、それは有益であると見做された場合に限り取り入れるだけでしかないということの裏返しでもある。伝統的にリアリズムを重んじた日本が仏教を取り入れたのは、この宗教は政教一致を強硬に主張するイデオロギーではなかったが故にだろう。


事実として、俗世の政治権力よりも宗教権威の優越を説く一向宗は、苛烈な宗教一揆を起こしかねないため、時の政治権力から徹底的に取り締まられていた。宗教に基づいた暴動ばかりを起こしていた一向宗は、ヨーロッパのプロテスタント過激派と同類であったと言えよう。


現代のヨーロッパのイスラム過激派は、俗世の法律よりも神の法律である戒律を優先していると言われることもあるが、国連の決議を無視して十字軍を敢行したり、選挙の結果を否定するために暴動を扇動するアメリカの大統領達は、イスラム過激派と完全に同じ価値観を持っている。こうしたアメリカは、現代のローマ帝国を自称することも多いが、大英帝国とは異なって彼等は神聖ローマに過ぎないのだから、ドイツの親類であるとしか言いようがない。


我々日本人が儒教と呼ぶ観念論は、江戸時代になって朱子学が官学認定されてから広まったものだ。実は儒教の伝来は江戸よりもはるかに早く、既に鎌倉時代には儒教の学校である足利学校なども存在していた。とはいえ、戦乱の多かった日本では儒教は見向きもされず、足利学校では易学や医学や兵学に人気があったようだ。朱子学以前の儒教は宗教と分類されることもあるが、日本人が江戸時代まで徹底的に無視してきた儒教とは一体何なのだろうか? 


儒教とは元々は中華の様々な思想の中で、孔子の徳治主義の思想の系譜を示す言葉である。この徳治主義とは人心を教化して体制維持を図ろうとする政教一致的な思想であって、覇道と王道の内の王道のことである。


この王道においては有形的な武力や法律を用いない文治主義が理想とされるが、それは無形的なリンチと脅迫が多用されるということの裏返しでしかない。人間の有形力が存在しない世界は、洗脳が基軸となった社会であることは、誰が考えても自明のことだろう。


現代の中国共産党の統治もリンチと脅迫を多用する政教一致の支配であるが、儒教的な王道の徳治政治の伝統は現代まで続いている。徳と言えば言葉の聞こえは良いが、何を徳とするかは権威による恣意的な決めつけ、つまりは観念の押し付けでしかない。徳という言葉が愚民化を表すにしても、それは宗教権威にとって「得」であり、それが故に「徳」とされるということであっても、全くにおいて不思議はないのだ。


権威にとって都合のいい虚構を妄信することが道徳であるのは、古今東西において普遍的な事実である。西洋にもこの徳治主義と類似した思想と社会構造は存在していたが、人心を徳化することに熱心であったキリスト教会は、バチカンの税収を高めることが目的であった。それ故に、人民を教化することがあっても、それが直接的には統治そのものに繋がるということは、ドイツという例外を除いては少ないのだ。


一方で、儒教の中華の場合は、皇帝はただ一人の天の代理人として神格化され、政教一致の度合いがヨーロッパに比べて遙かに強力であり、体制そのものが宗教でもある状態であった。儒教における人民への教化とは、中央集権体制自体を信仰させ、皇帝を絶対善として個人崇拝させることであるのだから、政教一致はこの上なく上命下服の専制支配に寄与する。このような儒教的な政教一致による集権体制は、ヨーロッパの歴史学においては「アジア的専制」と呼ばれている。


「啓蒙専制君主」の典型とされたフリードリヒ大王は、「余は国家第一の貢献者」と述べていた。彼の政治は、権威主義的な独裁であることよりも、社会契約と啓蒙による国家主義を目指した統治であって、啓蒙専制君主はアジア的専制から最も遠い存在であった。権威とは自らに奉仕させるものであるが、権力とは公共に奉仕するものだろう。


啓蒙専制君主以前の中世ヨーロッパの国家群は、特権階級が連帯してそれぞれの利権を守る社会状態であって、これは社団国家と呼ばれている。言うまでもなく、この状態は特権階級である「上級国民」ならぬ社団が、民衆を専制的に支配する人治主義社会であった。大部分の社団国家は、国力の増強を考えることもなく、政争のための政争と中抜きによる搾取を繰り返す様であったことは説明不要のことだ。啓蒙専制君主とは、その文字とは裏腹に専制を志向した王ではなく、彼等の政治は、手段としての専制であったとしても、その目的は民主主義に存在していた。つまり、啓蒙専制君主とは民主制権威主義の対極の存在であると言えよう。


啓蒙専制君主達は、集権的な政府を作ることには失敗したが、貴族やギルドなどの特権階級の力を一定に削減して、その代わりに平民にある程度の政治参加を保障するという権力の再配置には成功した。アメリカはともかく、ヨーロッパにおいてはこうして権力に双方向性が発生したため、中央集権化された政府が国民に上命下服を強制する形にはならず、民主主義の基盤が形成されていったわけだ。


近代における国民の誕生とは、ある意味において平民の貴族化であり、平民は徴兵の義務を負うと同時に、表裏一体の参政権を獲得していくという流れに繋がった。近代啓蒙思想というものも、平民に貴族的な思考を体得させるものであって、これは単に無条件で参政権を保障する類のものではなかったわけだ。


大陸ヨーロッパにおいては平民の文化と貴族の文化は完全に別物である。平民の文化には「高貴なる義務」がないが故に、平民は政治に参加し得ない。アメリカンドリームというものも、「高貴なる義務」を否定する「卑賎なる欲望」に過ぎない。だが、日本の文化には社会的階級差も少なく、広義の意味では日本人は全員が貴族であるのだから、明治維新という近代化が成功するのは必然であった。


ドイツ観念論とイギリス経験論、スコラ学と近代科学技術、妄想と理想、権威主義と功利主義、人治主義と法治社会、エゴイズムと自由、蒙昧と知性、臆病と勇気、自由からの逃走と自発的向上心、言論弾圧と自己批判、野蛮な奴隷と貴族の精神、オタクと芸術家、自己愛と公共性、劣と優、ドイツロマン主義と近代啓蒙思想、そしてヒトラーとフリードリヒ大王。この対比構造が見えてくれば、ヨーロッパの近代を理解することなど容易いのだ。この二項対立は観念論とは異なって実体的なものだろうが、余りにも単純過ぎて面白みがないため、筆者はここにフランスの芸術を加えて三項鼎立にすることを望んでいる。


ヨーロッパの近代の在り方とは対照的に、儒教による政教一致が中華における皇帝の専制を支え続け、近代という時代は中華には未だに現れていない。毛沢東政権も共産教という「赤い儒教」を使った政教一致であったのかも知れないが、鄧小平以降の中華は共産教どころか本当に儒教によって中央集権化されたアジア的専制であった。ちなみに、中華共産党は現行の体制を民主集中制と述べているが、民主制と権威主義は簡単に合致するという典型例であろう。


儒教と定義されるものは、日本人が認識する儒教の概念よりも幅が広く、実際に孔子と孟子では説いた内容に歴然たる差がある。実は、日本において儒教であると日常的に認識されているものは、主に徳川幕藩体制で官学とされた朱子学である。


本来は儒教と日本人が呼んでいる風習を論じる際には、儒教という名称よりも、陽明学なり朱子学なりと言ったそれぞれの流派の名称を用いる方が適切である。しかし、朱子学は孔子を正当に受け継ぐ本流なので、これを儒教と呼ぶことは間違いではない。


吉田松陰が重んじた陽明学は亜流の孟子よりも更なる異端であって、儒教というよりも墨家の説いた内容に似通ったものであった。だが、本質的に吉田松陰は国学者兼軍学者であって、中華的な流れを汲む陽明学者であったと評することは適切ではないだろう。


また、宗教や思想を論じる際には、それらの教典の在り方よりも、実体の在り方を考慮すべきではあると筆者は考えている。「地上の楽園」と喧伝していても、実際には「飢餓の地獄」となり、核開発や麻薬の密貿易などの「地下の経済」ばかりが発達してしまった儒教の国がすぐ近くに存在していることを常に肝に銘じておかなければいけない。


とはいえ、儒教の聖典の一つであり、日本でも一時期ブームとなった論語の中には、何がどのように書かれているかを覗いてみる必要はある。次の章からはそれを確認することにしよう。
 

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