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法律の中の戒律 人権という名の白人権威主義

法律の中の戒律 人権という名の白人権威主義
現代の国学
「やまとこころ」と近代理念の一致について                
第二章 宗教とは何か? 啓蒙との本質的な違いについて

 
歴史的に、人権とはアメリカ独立宣言の天賦人権論によって生まれたと言われている。だが実は、人権と呼ばれているものは人間の感情に根差し、人が人を愛することによって保証しているものではない。American Justiceとは、自らは絶対に正しいという観念を他者に押し付けるだけの欺瞞であって、これをして正偽とでも呼ぶべきだろう。

アメリカには正義は存在せず、その代わりに正偽が蔓延しているが故に、公共を考える哲学ではなくて、己の人生についてだけを思考する自己啓発が大人気であるわけだ。彼等の唱える共感とは、自らの快不快に関わらなければ無関心という意味でしかない。先日にはアメリカの「これからの正義の話をしよう」という本が流行したが、筆者はアメリカの「これまでの正偽の話をしよう」と思う。

アメリカ独立宣言とはプロテスタント的な価値観によって、神という権威によって保障される国権神授説と人権神授説でしかなく、これは中世的な王権神授説が変化しただけのものに過ぎない。それ故に、人権と呼ばれる観念は社会契約によって成立したものでもなく、当然のように非白人に保証されない「白人権」でしかなかった。この観念が近代という時代を創ったものではないということは説明不要だろうが、人権への信仰は世界を中世に退化させるための宗教テロでしかないとまで言っても問題はないだろう。

白人が観念を規定して、権威主義によって世界に押し付けることが白人至上主義の理想であるが、それはつまりピューリタン革命を世界規模化することに過ぎない。アメリカ人が尊ぶ「自由」とは、法律を否定するための道徳でしかなく、その言葉が示す意味は白人という権威に由来するという意味の「白由」でしかないのだ。

そもそも、民主主義とは古代ギリシャに既に存在していたものであって、これは人類に普遍足りうる理念だ。だが、アメリカの白人にとっては、民主主義とはアメリカが創り出し、世界に押し付けるための「白由」の観念でしかない。事実としてアメリカには実体を認知して理解する能力が存在せず、他者に自らの身勝手な観念を押し付けて、自己満足と個人利益だけを求めている。

人権という人間に有益に見える価値であっても、実は元々は単なる白人至上主義に由来したものであって、つまりは人権とは白人権威主義のことでしかない。人権とは、元々は公平性を伴わない選民思想でしかなく、これが有色人種に保障されている普遍的人道主義であるという考え方こそが究極のヴァーチャリズムなのだ。

アメリカとは、白人権威主義による全体主義社会であり、ソ連や中華がイデオロギー的な全体主義社会であったとしても、アメリカも宗教と人種による実質的一党独裁社会に過ぎない。アメリカは、理念なき力を正当化するために宗教観念を駆使することを、不条理な暴力行使よりも更に好んでいる。アメリカは自分達以外を全体主義とラベリングしたいのだろうが、その実において彼等の社会もまた一つの全体主義社会でしかない。

フェミニストが唱える人権とは女性専用の権利であって、これは男性を攻撃するための権利であると揶揄されることもある。だが、そもそも人権とは白人専用のものであって、そして先住民の有色人種を浄化殲滅するための権利でしかなかった。人権というものは最初から加害者に保証する権利であって、被害者に保証するための権利ではなかったのだ。それ故に、現代においても、実体公平性を軽視して、加害者の人権擁護に偏重が起きることは当然のことだろう。プロテスタントにおいては公共精神の否定とエゴイズムの絶対肯定こそが、道徳とされて尊ばれていることなのだから。

最近では、黒人によるアジア人への暴力が問題となっている。この世で人権と呼ばれる観念は、普遍的な人道理念ではなくて、勤労カルヴィニズムに基づいた白人特権であったのだから、それが黒人特権になったとしても、結局は何らかの形で分断が残り続けるのは必然の現象でしかない。そもそも、人権とは特定の人種に保証される権利であって、万人に保証するための権利ではないのだから。

彼等は、アメリカ人になるために白人の真似をしているだけであって、この差別の本質的な根源は、実はアメリカ白人の歴史に存在している。アメリカは、社会的統合のための法律を否定する野放図社会であるが故に、白人至上主義のような妄想観念によってしか纏まれず、故に差別的な悲劇がいつまでも繰り返されることになるのだ。人種差別と権威主義が残るうちは、社会は「万人の万人に対する闘争」にしかなり得ない。

「勝てば官軍」の日本人は「判官贔屓」として勝者を妄信することを拒否しているが、勤労カルヴィニズムの「勝てば選民」ではどんなに不公平であろうとも、選民思想の信仰によって全てが道徳的正当化される。アメリカの白人達には、人の内面の在り方を理解出来ず、外面のみが理解できる全てであって、彼等の分厚い面の皮に浮かび上がった自己利益のための自己主張は、彼等の骨の髄まで染みついているものであるということを我々は認識しなければならない。

現代でフェミニズムと呼ばれているものにしても、人権と呼ばれているものにしても、「個の意識」を否定する個人利益主義でしかない。これらの観念は、元々はプロテスタントの選民思想に基づいた自己権威化であって、それは自らを無罪無謬として他者を攻撃する権利を保障する「選民無罪」でしかなかった。

現代によくみられる人権への信仰というものは、法的な価値観を宗教化する政教一致でしかないのだが、歴史的には人権とは最初から宗教を政治化しただけのものに過ぎない。そして、その人権という観念は、「白人無罪」なり「女性無罪」なりといった「その他有罪」の責任転嫁であって、権威に選ばれた自分は絶対に正しく、責任は一切において問われることが無く、相手が全てにおいて間違っていて、恣意的に懲罰することが公正であるという二元論的でしかないのだ。

こうした価値観は、ゲルマン的権威主義そのものであると言えよう。プロテスタントフェミニズムとは、男性を排除し、非白人を抹殺して、多様性をこの世から消滅させれば、世界はそれだけで平和になるという下らない妄想でしかない。民主主義に必要な幅広い意見を弾圧し、公共判断を破壊して、神官が全てを自らの思い通りにしようとするための観念的な難癖に過ぎない。母親が無謬であるという世界観を持ったプロテスタントフェミニズムにおいては、事実を捻じ曲げることですらも何ら問題とされない。それ故に、母親の暴力への抵抗は、神聖なる女性への攻撃として神学的な罪とされ、母親からの無制限の暴力だけではなく、母親からの無尽蔵の逆恨みまでもが生まれることとなる。

実は、自由意思の前に白人であることなり女性であることなりを存在させるこれらの思考は、ナチズムと同じ性質の全体主義でしかない。それ故に、こうした権威主義は人間の「個の意識」を徹底的に抑圧して、全ての人間を不幸にすることしか出来ない。全ての人間に対して女性性への絶対的肯定を強制するプロテスタントフェミニズムは、全ての人間に対してドイツ性やらゲルマン民族性に絶対服従を強制させたナチズムと瓜二つだ。こうした観念を妄信する白人達は公共性を知らず、恨みしか持ちえないのだろう。

結局のところ、人間の権利を神が保証するという文句でしかない人権とは、神が許さないならば殺してもいい、権威が認めないならば生きていてはいけない、という価値観の裏返しであった。人権とは権威に承認されなければならないという価値観であって、それは権威が全てを決定するという独裁的な運命予定説に裏打ちされたものでしかない。それ故に、人権主義者達は、神のみが人間を裁く権利を有するとして、死刑反対という人間の司法への否定を唱えているが、これは政教一致以外の何物でもなかろう。

だがその実において、アメリカでは現行犯を射殺することが多いのだから、人権とは司法を否定するだけで殺人を否定しているわけではなく、もっと言えば私刑を否定しているというわけでもない。そもそも、人種差別的な民族浄化と都市爆撃という形の連座処刑を好むアメリカが、連座制を否定して加害者家族の人権を訴えること自体が噴飯物の議論なのだ。人権という観念を妄信する者は、殺人鬼が獲物を油断させるための法螺を信じているだけだろう。

現在のアメリカでは動物の権利というものが訴えられている。彼等は、権利が神に保障されていないのであるならば徹底的に殺し尽くしてしまうからこそ、今更になって動物を殺し尽くさないことを考え始めたのだろう。事実として、新大陸に存在していた動物には、白人入植者達が絶滅させてしまったものも多い。

日本の仏教や神道では、不要不益な殺生は禁止している。だが、アメリカの根底には神以外を認めず、神が認めないものを皆殺しにすることこそが道徳であるという信仰が存在している。

実際に、アメリカでは自然保護は信仰に反すると捉えられる風潮が本当に存在しているし、トランプ前大統領の支持者達は信仰によって自然保護を否定していた。所詮は人権とは、人間と見做されないものを攻撃するために権威が保証した権利であって、これは法律ではなくて戒律に過ぎない。人間を絶対に殺してはいけないと狂信し続けなければ、人間を殺し尽くしてしまう程に理不尽なる殺生を好むことの裏返しでしかない。そもそも、勤労カルヴィニズムにおいては権威主義によって不公平を正当化することが信仰されているのだから、彼等に命を守ることが出来たとしても、正義を守護することは絶対に不可能だ。

そもそも、アメリカの独立自体が、イギリス政府の徴税からの解放を意味するものであって、これは個人的蓄財への信仰であったとしても、近代理念の自由を肯定する類のものではなかった。アメリカにおいては自由の根源が人間ではなくキリスト教の権威の神であるが故に、イギリス政府という権力の否定は、勤労カルヴィニズムというドイツ宗教による政教一致でしかなかったのだ。つまりは、アメリカはイギリスから独立した結果として、ドイツに征服されることになったと言えよう。

植民地主義と人種差別は根本的に別の問題であって、前者はイギリスの問題で後者がアメリカやドイツの問題である。前者には功罪相半ばする部分が一定にはあったが、後者には功が存在する由もない。キプリングは「白人の責務」を唱え、後進国を先進させることがイギリス白人の義務であるということを説いたが、それは科学技術とルネサンス思想によってのみ可能なことであって、勤労カルヴィニズムは虐殺を生み出すだけだ。文明国であるイギリスやプロイセンに後進国の先進化支援が出来る可能性はあるが、国家を理解出来ない野蛮な民族集団であるナチスには、それは絶対に不可能である。

「自由の国」と呼ばれるアメリカは、民主主義の帝国ではなくて、勤労カルヴィニズムの帝国擬きか、若しくは神聖ローマ帝国でしかない。彼等は奴隷意思論によって成立する民族集団であって、公共権力を否定するアメリカにおいては経済的な自立が唱えられようとも、宗教権威への依存はどこまでも強まるという矛盾が存在している。そもそも、人間が国家や物理現象から完全に独立しようとするならば、それはカルト集団にしかならないという事実を、ロマン主義者の彼等はまるで認識していない。

アメリカ人が自由と呼んでいるものの正体は公共性の放棄であって、そして、彼等が民主主義と言っているものは単なる貴族的な精神の否定に過ぎない。問題解決よりも被害の押し付けを選ぶことは、それが自由であったとしても不名誉極まることだ。だが、その卑屈さこそが蓄財に最も近い道であって、選民性の証であると彼等彼女等は考えている。

こうしたアメリカの個人利益主義においては、問題解決という言葉が責任転嫁を意味するものに堕落する。自らの非を認めるよりも、相手を破滅させることの方が個人利益主義においては是とされる行為だ。他者を助け社会を向上させる公共意識よりも、理由も目的もなく他者に危害を加え、とりあえず叩きのめしておくという無法の思考が優位となって、日本では到底考えられないような特定の人種に対する暴力等が横行している。他人にものを提供する協働よりも、他人のものを破壊する見せしめの方が競争で勝つことには明らかに有利な選択なのだ。

これは言いがかりでもなんでもなく、アメリカはイラクの街を破壊するだけではなく、メソポタミア文明の遺産を守ることにも無関心で、結果としてそれらは散逸することとなった。アメリカの野放図への信仰はどこまでも社会の規律を破壊するものであって、彼等は暴徒と軍隊の違いを理解出来ないのだろう。「勝てば選民」の彼等は誇りも美意識も持ち合わせていないが故に、補給が十分な現代軍であっても軍規は滅茶苦茶でしかなかった。おまけに、先日にトランプ前大統領はイランの文化財をも破壊する意思があると表明していた。

アメリカの数々の蛮行は、非白人を殺戮し、その所有物を破壊することによって、アメリカの優越的選民性を世界に誇示しようとする恐怖政治か、若しくはキリスト教以前の古代文明の痕跡を消滅させようとする宗教的ホワイトウォッシングであったのかも知れない。こうした白人至上主義がなければ、イラクの統治もおそらくは今よりはマシであったはずだ。

自分の所有物以外は全て破壊するという思考は、競争社会においては優位を作るだろうが、子どもを否定するために子供のものを壊す毒親と類似したものでもある。毒親は、子どものものを壊し、子どもから自由を取り上げることによって、子どもの人生を破壊し尽くす。子どもの精神を完全に否定することによって、全てを諦めさせることによって、言うが儘に動く奴隷を造るというわけだ。

なんであれ、イラク戦争は非白人への単なる嫌がらせの騙し討ちでしかなく、有益な結果を創るための政治的行為ではなかった。破壊しか求めない無法の力では、意思と構造を噛み合わせて未来を創造することは出来ない。武術とは意識と目的と構造を噛み合わせる力であって、噛み合わせを伴わない力では他者と自らを破壊するだけであり、何をも守ることが出来ずに破壊のための破壊を繰り返すことになる。

アメリカの個人利益主義の力は認知なき暴力であって、故にアメリカは敵でもない者を攻撃し、しかもそれを自省することもない。彼等のように、暴力を振るいたいが故に適当な理由を作り上げるような浅ましい賊徒は、貴族でもなければ義賊であるはずもない。こうした無責任な人殺しは、環境破壊に対する無関心と完全に同じものだろう。個人利益のために社会全体を破壊する行為を許すことが、アメリカの唱える自由という名の野放図である。彼等は、何をしても己を許すことが出来る程に名誉とも公正さとも無縁であるというわけだ。

斯様な権威主義は創造を抑圧し、文化を破壊し、人間を労働力としてだけ扱うものであるが、それこそがまさに勤労カルヴィニズムの本質である。敬虔な彼等にとっては、創造は権威の特権であって、権威に追従して権威以外を抹殺することが人間の仕事なのだ。アメリカとは地動説と民主主義よりも、宗教と多数決を愛好する衆愚の集合体に過ぎず、自らの醜さを正当化するために、高貴なるものを否定し、破壊し尽くして根絶しなければ、彼等は気が済まないのだ。公平性など無かろうとも蓄財できれば全て良しという、「勝てば選民」がアメリカンマインドであって、これは権威主義と奴隷制への信仰なのだから。

これらの歴史的事実を、国民感情を無視しがちな法曹の方々は理解しているのだろうか?果たして、現代日本の法律は、法律であるのだろうか? 単なる文字面の条文であるか若しくはアメリカ白人への信仰であって、単に自己増殖するだけの戒律であるのだろうか? 法曹というのは、国民の代表の一人なのであるのだろうか? それとも、法学という名前に偽装した神学を唱える、アメリカという神の代弁者なのであろうか? 

日本の明治維新は徳川幕府の圧政の転覆を目的としていたが、その根本に人間主義の理念が存在していたことがアメリカの独立との決定的な違いである。武力を用いる既存の体制の破壊は手段であって、その先の実現すべきものが目的であるが、日本人とアメリカ人ではその目的が決定的なまでに異なっていた。

「命も要らぬ、名も要らぬ、官位も金も要らぬ」の明治維新とは儒教的な身分制度を否定するための近代化であった。一方で、アメリカ独立宣言とは選民思想のための白人権を作ったものであるということは、日本人は覚えておかねばならない。

アメリカが日本に民主主義をもたらした歴史など存在せず、日本人が日本の民主主義を創ったというのが歴史的事実である。人権という観念を重んじている限りは、日本の国家主権とそして人間の権利を犠牲にし続けることになるだろう。

日本人は実体的な理念と信念を胸に、峻厳に決断し凄絶に戦うことで明治維新を起こした。だが、アメリカとは白人至上主義という属人的な観念と信仰に基づいて、自らに対する甘えと誤魔化しによって成立した国である。アメリカとは、民主主義から生まれた存在ではなくて、経典原理主義を唱える権威主義宗教から生まれた存在でしかない。アメリカとは、人間の自由意思ではなくて、奴隷意思論に運命予定説といった宗教原理主義と、そして白人至上主義に基づいて生まれた国なのだから、「自由の国」ではなくて、「白由の国」に過ぎない。

一神教とは、権威である自分達が絶対的に肯定されるべきであって、自分たち以外は完全に否定するべき存在であるという迷信である。これは、普遍的公平性を破壊する権威主義的独善でしかないのだから、人間の権利を抑圧するための人権運動が生まれることも必然であると言えよう。

このようなアメリカが、反イギリス、反ソ連、反イスラム、反ワクチンといった反Xでしか纏まれないのは、理念と合理性とそして高貴さが伴った社会契約を一切において持たないが故にだ。こうした反Xは、科学的かつ客観的な批判というよりも、逆恨みに基づいた否定以外の何物でもない。被害を押し付ける生贄を造るために、差別というものが存在するわけであるが、このような保身は人間から問題解決意識を抹殺するだけだろう。群れて標的を虐める能力と、他者と仲良くする能力は別なのだ。言うまでもないことであるが、権威が愛好する反権力は、社会契約を破壊する帰結以外を一切において導き出さない。

当然のことであるが、ナチスというものは人類史における例外的な事象なので、反ナチスという反権威は、アメリカの反Xとは完全に異なったものである。差別は観念的なものであるが、区別は実体的なものであって、不寛容なナチスに対しては不寛容であることが公平というものなのだ。

こうしたアメリカにおける競争とは所詮はマウンティング合戦を誘発するだけの「万人の万人に対する闘争」でしかないのだろう。借り物の正義を騙る彼等には人の揚げ足を取ることが出来ても、自らによって理念を創り上げることは絶対に出来ない。己のことしか考えられない彼等は、他者に対する観念的な優越を求めるだけで、実体的な結果などまるで欲しがっていないのだ。故に、何ら思想を持たず、自分達とそれ以外という枠組み以外を、彼等は思考することが絶対に出来ない。

ナチスの反ユダヤ主義というものも、ルサンチマンを宗教化したゲルマン的迷妄であるが、そもそも、勤労カルヴィニズム自体が反カトリックでしかなかった。自由と解放を謡う彼等は、現状を否定するだけで、野放図なことに何をも目指していない。言うまでもないことだが、反人種差別には軸が無く、公共判断を求めて初めて社会を成立させる基盤が生まれるのだ。

筆者は現代の白人権威主義、すなわち権威の神に服従する権利ではなくて、人間を自由にする人道的な権利を心から求めている。人間が人間を奴隷にすることが無い、真の意味での人間の思想を心から望んでいる。人間が人間に保証する普遍的で公平な権利を、筆者は何よりも欲しているのだ。

平和主義と人権の観念が蔓延する世界では、誰もナチスを断罪することが出来ない。殺人の否定によって活人剣を失うことは、白人権を妄信すること以上に危険なことだ。権威が述べることが現実に反しているならば、それを守ることには何ら意味がない。何を守り何を殺すかを考えることこそが、我々に必要なことなのだ。

であるが故に、本著を残すことによってナチズムを裁かん、と筆者は決意した次第である。民主主義とは自分達で公共の規律を考える意識であって、野放図を求める事でもなければ、戒律を強制する権威に縋ることでもない。アメリカが最初から民主主義国家ではなかったことなどは、誰が見ても明らかなことだ。
 

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