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「特定の誰か」に向けて書いてみる

元クラシコムの長谷川さんが、こんなnoteを書いていた。

そのnoteでは、こんなことが書かれている。

ぼくは以前にいたクラシコムという会社で、「たったひとりに刺さるコンテンツは、きっと多くの誰かにも届く」というスタンスを教わった。そのひとりが「記事を作っている自分」ということもある。

多数の人に受け入れられているものでも、顔が特定できるほどの「あの人」だったり、とても狭い範囲の「誰か」であったりを意識した“結果”ということはあるのだろう。むしろそれができているほうが、言葉や温度が気を使われたものになり、確かになっていく。

もういっちょ。

ともかく、「共感なんて得られないのはわかってるけど、とにかくあなたにさえ届けばいい!」というコンテンツこそが多くの共感を生んでいる。ふしぎな図だけれど、わからなくもない。

冒頭の話に戻ると、ウェブメディアも、記事も、愛すべき「誰か」を浮かべることが、結果につながることがあるのかもしれない。つまり、コンテンツの手紙化が、ひとつの道筋になるのだ。

・・・

これは、前に古賀さんがFROGGYで連載していた、「読者はどこにいるのか?」という記事を読んでいて思った。

そもそも「みんな」なんて人間はどこにもいないんですね。たとえば100人が読む文章だとしたら、その読み方や解釈は100とおりになるのが当然で、けっして「みんな」という人格を持った誰かが読むわけではありません。

誰に向けて書くのか?という問いは、文章を書くときに散々言われていたし、自分も分かったと思っていた。でも、理解はしていなかった。

古賀さんの記事で書かれていたのは、想定読者は2つのパターンに分けられるという。

・特定の「あの人」
・あのころの「自分」

「みんな」というふわっとした層に向けて書くのではなく、身近に伝えたい〇〇さんに向けて書く。もしくは、「あのころの自分」に向けて書く。そうでもしないと、伝わるものも薄まってしまうのだと実感した。

ちょうど、なんだか物足りない気持ちを感じていたときだったので、せっかくだからこのことを念頭に置きながらテキストを作成したいと思った。

・・・

それでいうと、同い年のタクロコマさんの書く「君のいまがより良くなるように。」というマガジンは、とっても新しいなと思った。

先ほどの古賀さんの言う「誰かに向けて書く」っていうなかで、「未来の子供に向けて書く」っていうのが革新的だなと思う。

それに、自分の子どもに向けて書いているものを、横で眺めさせてもらっているようなそんな少しこそばゆい気持ちにもなってくる。

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これまでもそうだけど、自分がnoteで書くものは基本的に「あのころの自分」に向けて書いているものが多かったので、誰かに向けて書くということもしていきたいなと思った。もしかしたら表現の幅が広がるかもしれない。

(Photo by Elena Ferrer on Unsplash)

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