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読書記録008「光媒の花」道尾秀介

ちょっと引いてしまうほど話が巧い。

なぜなんだろう?と考える。どうしてこんなに巧いと感じるのだろう?

『光媒の花』は六編の短編から構成されていて、同じ世界観のもとに書かれた連作であり、それぞれの登場人物がほかの短編のなかにも影を落とすようになっている。いわゆるスターシステム的な要素。これによって読んでる方は興奮する。しかしそれはジャブに過ぎない。では、それぞれの独立した短編として読むにしても、どうしてこれほど巧いと感じるのだろう?

そもそも短編ごとでみれば分量は少ない。どちらかというとトリッキーなものだと思う。この巧さは。しかし完全に技巧だけで成り立っているわけではない。ちゃんとした物語のなかで駆動する巧さだ。

うーんと考えてみて、結果、「起・承・転・結が、それぞれ生きているからだ」という考えに行きついた。それぞれの部分が、単なるつなぎとしてつくられているだけではなく、存在感をもっている。どういう方法によってか?「起」「承」「転」「結」という4つのブロックがある。これらは役割を持っている。ちゃんとそれをこなしてもいる。ところで、ストーリーにはその世界観に基づいた「現実感」がある。それは主人公のもつ五感の効用、あるいは記憶や心配ごとによって描出される。「起」「承」「転」「結」のそれぞれが、その「現実感」によってリアルに表現されている。だが、(重要なことには、)その「現実感」は絶えず裏切られるかたちで表現されているのだ。人間の経験則的感覚領野は、物事の一部分を知覚して物事を判断するため、俯瞰してみたときに、その判断が間違っているということがままある。すなわち、さきほど言った「現実感」というのは本作においては、「裏切られる現実感(不十分な認識)」と「裏切る現実感(俯瞰したときの認識)」の相反するふたつの部分として描かれている。

なんと、その仕掛けが「起」「承」「転」「結」という4つのブロック、すべてに適用されている(!)のである。

それゆえに4つのブロックは、役割以上の存在感をもったものとして現れててくるし、それぞれが独立した力で読むものを惹きつける。それが4つのブロックとしてでなく、全体の流れとしてみたときに、二重の「現実感」のなかから落としどころとして見事な「現実感」に漂着する。

おそらくそれが、ぼくの感じた『引いてしまうほどの巧さ』の大きな理由だろう。そしてそう考えてみると、このミクロな部分での「現実感の二重性」というのは、道尾秀介の得意技のひとつである気もしてくるのであった。いずれにせよ短編の名手であることには間違いない。

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