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写る愛と写らない愛/光画楼喜譚に寄せて

まだ余る旅路には、一体どんな喜びがあるだろうか。
生きるとか、死ぬとか、総じて勝手だ。
わたしは多分生きていくことに消極的な方だけど、同時に死にゆくことを愛しているとも言える。
燃えるように、尽きるまで、今日を必死に生きているつもりだ。


少年社中25周年記念公演第二弾『光画楼喜譚』
名前の通り、喜劇を描いた物語である。愛と絆、コメディと重さのバランスがとても好きでした。

ネタバレを含みます。
そして先に伝えたいこと、是非、足を運んでください。

ここ1年は仕事が忙しくてタイミングが合わなかったり、どんな舞台があるかも調べられなかったりと、実に5ヶ月近くぶりの観劇だった。
毛利さんの脚本、演出された舞台を見るのはおそらく4作品目。朗読も入れれば5作。でも、少年社中を生で観劇するのは初めて。

もうドキドキしてですね、嬉しい。この瞬間のために生きてると言っても過言じゃない。
本当は週末に友人と来たかったけれど、わたしの仕事の都合で難しそうなため、今日しかないと仕事を早めに切り上げた。会場に着いたのは開演5分前。

「当日券、まだ間に合いますか」

とりあえずパンフレットも買う。
衣装の村瀬夏夜さんが好きだから、これはもう迷いようがない。目標にしている方の1人でもある。
そう言えば、わたしが今の道に進んだのは、いろんな人やいろんな物語との出会いがあったからだけど、腹を括ったのは、毛利さんが脚本演出し、村瀬さんが衣装を手がけた『星の飛行士』だった。
あの日からずっと夜間飛行を続けている。

中野ザ・ポケットへははじめてきた。とても小さな劇場で、もうこんなのどの席も最前では?と思いながら座る。
セットが可愛い。
メキシコの死者の日をモチーフにしているだろうことはビジュアルからも感じていたが、セットも死者の日モチーフなのだろう。雛壇のように階段になっていて、両端に写真が飾られている。
このへんは『リメンバー・ミー』を観たので知っている。これもめちゃくちゃいい映画。音楽もいい。知識も語彙もないから上手く言えないけど。死者の日では雛壇のような祭壇に、写真を飾るのだ。
和製死者の日といった感じで、もうワクワクしてくる。

幕が開く。
まず言わせてほしい、生駒ちゃん可愛すぎる…。
あの、元々好きなんですけど、、、、、、えぇ超可愛い。
声が鈴みたいで、よく通って、とても綺麗で。少女すぎる。
体重がないみたいに軽い動きでくるくると表情を変えるのが、人間というより人形っぽくて。可愛いけど「生きてる」というには違和感がある。凄い。

小さな劇場の好きなところは肉声であるところ。そして、舞台と客席とがあまりに近いために、役者が舞台に立った時、こちら側にも妙な緊張感が走る。
広い会場よりも、現実感というか、地続きな感じが強いから、それを感じさせない役者の皆様は本当にすごいな、と思う。
だって多分、幅で言ったら教室より狭い。
スピーカーを通さず、直接役者の喉から響く声が、空気を震わせていく。ああ、もう、きもちい。

物語序盤からある種の陰りは感じるものの、終始コメディ調で、明るく、そしてとても暖かな家族の話。パロディ盛り盛りの茶番劇があったり、生や死を扱いながらも笑えてしまうのは、まさにメキシカンな感じがした。

結論、というか、わたしが言いたいのは。いや、こっから自分語りを始めるんですけど。

幕が閉じる。号泣。立てない。
隣のお姉さんも同じ勢いで泣いてる。
ここから先、全てがわたしなりの賛辞なんですけど、創り手や演者からしたら不本意かもしれません。

観劇された皆さんに聞きたいんですけど、今どんな感情に包まれていますか。
わたしは死ねない、死にたいし、死ねないのも辛いって、心で叫びながら泣いていて。立ち上がりたくても上手く力が入らなくて、感動と絶望が入り混じってて。すごくいいお話だった、だったんです。それがとても、わたしには重たかった。
死ねないことが重たかった。

死んでしまいたいほど現実を地獄だと、そう思ってしまった人間から「死の機会を奪う」その上「自らの命を犠牲にする」

あ、これしんどい。いい話なのに、何よりも愛なのに、だって、残された方はもう、絶対生き抜かなきゃいけない。それだけでわたしは家族愛への感動と一緒に絶望にも包まれてしまって。
ああでも多分わたしの両親も、わたしがこんな状況に陥った時、わたしが生きることを「幸せ」というだろうな。生きるって、親子って、家族って、そういうものだな。
生きるのも、生きてほしいと思うのも、死にたいと思うのも全部勝手で、家族って勝手で、いるだけマシかもしれないけど、いなければ勝手できたのにって、わたしはずっと思ってて。
生きることそのものが多分愛で、わたしには重い。
でもこれは厭世主義者にとってのカタルシスであって、悲しいだけではない。

「やりたいことだから辛いの当たり前」
これ、妙に刺さっちゃって。そっかあなんて簡単に言えなくて。
やりたいことをやり続けるために、必死でやってきた今だから、苦しく感じたんだと思う。やる前だったら、ええ言葉や。で終わってたかも。
やりたいことをしてるけど、逃げようともした。辛い気持ちとやりがいや達成感と、全部が交互にやってくる。ここにしかない特別を抱きしめながら、なんでこんなにも大変な思いしてるのかなって思う。もっと楽に生きる方法なんていくらでも知ってる。人より死にたがりなんだから、人より楽したらいいのに。
もう全部要らないけど、押し除けたら耐えきれない気もしてる。やりたいこと以外に生きたい人生なんて、ない。
でもやりたいことも辞めちゃいたい。
観劇中、何度も何度も「幸せってなんだろう」って考える。

でもさ、「辞めればいい」っていう方が簡単かも知れないのに、もう一度首にカメラを掛け直すあの心の渡し方は、なんかすごく、やっぱり道って幾つもあるけど、幾つもはなくて。多分幸広にとって大切なものを、ちゃんとわかってるのかなって思ったし、世代を受け継いでいく意味にとれて素敵だった。
終わりの、一花ちゃんに語りかけるあのやりとりが紛れもなく家族で。生まれるずっと前から家族だった家族。えがっだねえ“って泣きました。

泣きながら会場をでて、ポケットに手を突っ込んだら、とれたジャケットのボタンが入っていた。仕事先からまた持ってきてしまった。右手の指先を遊ばせながら、今日着てるこの服は父とお揃いのサロペットだなって気がつく。
飲屋街のようなところに行き着く。やけに電飾だらけな通りで、まるで死者の日だな。まるで違う世界に来たみたいで、自分だけ切り取られた気分になる。

スマホの充電が切れてしまったため、中野駅前のマックに入る。鼻を啜りながら注文するわたしに、お兄さんが一瞬ギョッとした顔をする。ほんとすんません。スマイルひとつ。

充電、全然貯まらない。
手持ち無沙汰で手帳を開いてみたりする。
スケジュールを確認しつつ、次の衣装に考えを巡らせる。
いつだって忙しないし、ギリギリで、ほんとずっと不安が消えない。

実家を出る時、辛くなったら荷物まとめて帰っておいでとは言われたけれど、帰ることはないんだろうな。その前に端っこが来ちゃうって。
時々実家へ泊まりに行っては涙が出てしまうのは、最後かもって、いつだってぼんやり考えるからで。
なんとなく、引っ越しのあの日、さよならした気がしてる。この家にはもう住むことはないなって、そんな予感がして。でもあまりポジティブな予感ではなくて。わたしはあの頃、家族の知らないところでいつか死のうとして、そんな思いで上京したのかもしれない。

スマホの電源がつく。思いの丈をとりあえずぽちぽち。
感情を整理するのには時間がかかるけれど、でも死にたくなるほど熱に当てられた舞台って強烈に忘れない。
そしてわたしは舞台が好きで生きているから、強烈なエネルギーになる。

またひとつ、楽しみな仕事が回り出している。夜の物語を作ってる。
わたしがこの人生の端を、ちゃんと結べるかどうかはちょっとわかんない。でも、友人とおばあちゃんになったら、って仮定で話すのは楽しい。
未来の全部に絶望してるわけじゃない。
幸せってなんだろうね。
やれることをやってく。明日も。
物語が誰かの明日を結ぶよう、祈って。



光画楼喜譚に寄せて/2023/9/14

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