希死念慮で狂わないようにしてる狂った人

セミのけたたましい声をBGMに私は胸糞の悪い夢を見ていた。7時には起きないといけないからギリギリまで寝ていたいのに。覚醒してくると「また今日がやってきたのか」とうんざりする。もう目覚めたくはなかったのに、いつも目覚める。

体のどこかに悪いところがあるわけではない。強いて言うなら脳だろうとは思うけど。

とりたてて命を危ぶむような病気を患っているわけではないのに、私はいつも死と直面して生きている。

隙あらば死を選ぼうとするし、死に希望を抱いてしまう。ポジティブにもネガティブにも死を捉えているから、死は実際、ポジティブでもネガティブでもない。


死を願うなんてバカだし、何があってもどんな美談で取り繕っても許されることではないとかたくなな人もいる。

それは正論だし、私は正直、申し訳なくてしかたない。

でも、それはやめておこうと思ってできるものでもない。心臓の鼓動や、呼吸みたいに普通に当たり前にあって、それにはバカも美談も何もあったもんじゃない。

死を感じないと狂いそうになる。


私の周りにはあまりにも死がなさすぎた。

動物園の動物のように檻の中で生きてきていて、飼育員が全部してくれる。

食べるものもあるし、寝るところもあって、適当に暇をつぶすものまで用意されていた。

たくさんの仲間たちが死んでいったはずだけど、死体はどこにもなく、まるで何事もなかったようだった。

それも全部飼育員の配慮だった。

こうやって身の回りの世話も、考えることまで全てを飼育員がしてくれた。飼育員はそのために心血を注ぎ、充実し、実に生き生きとしていた。

そんな仕事真面目で勤勉な飼育員のおかげで、私は自分の世話だけではなく考えることまで奪われてきた。

飼われている私はそうやって生を奪われたし、死も奪われてきた。

私には何もなくて、それで狂いそうだった。


どうかしてしまいそうで、でも正気を保って、反吐が出るようなかわいいしぐさをしないと、いつか簡単に捨てられてしまう気がしていた。

狂わないように正気を保とうとするけど、そのために理解できることがほとんどなく、唯一分かるのは絶望だった。

どうにかしようにもどうする力もない。

すべも知らないしアイデアも浮かばない。

だから狂わないように死を願うようになった。

わけのわからない生を支えるためにわかりやすく死を願うようになった。


動物好きなみなさんには悪いけど、そんなことから私は動物園が苦手だ。

私は動物園での暮らしを楽しめなかったから。楽しめたなら幸福だったけど、楽しめなかったから不幸だった。


最近、大切な人がグロテスクに殺されるような漫画やアニメがヒットしている。

無邪気な子どもから、まっとうそうな大人までもがおぞましい描写を普通に見ている。

これも狂ってしまわないようにかな?

そんな漫画やアニメ、とてもじゃないけれど紛争地では流行らないだろう。


自由だと言って、発展だと言って、生も死も全てをむさぼる。

生にも死にも異常に執着して、全てをわかろうとし、手におさめようとする。


生きていたいし死にたくないけれど、死んでしまうことがある。

怖くて悲しくてしかたない。

でも、死んでしまっても土になるし、川になるし、空になり、命をつなぐだろう。

それは自然の摂理の中にあり、壮大でいて、それだけだ。


命はそんな風にとても大事なのに、えらくこじらせてしまった。

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