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換えられるひと、呼ばれるひと

就活が心底嫌いだった。
過去形で書くことができるのは、私は来月から新社会人となることがすでに決まっているからだ。

内定をもらったと家族や友人たちに伝えたところ「おめでとう」という言葉が返ってきたけれど、ひねくれた性分である私は本当にこれがおめでたい話なのか確信が持てていなかった。

4月から勤める会社に不満はない。私が夢中になれそうなことをできる良い環境だと思ったから入社を決断したのだ。この選択には満足している。

それでも、ずっと喉にトゲが引っかかっているような感覚がなくなることはなかった。
自分は何がそんなに気に食わないのだろう?就活を終えてから卒論を書くかたわらでじっくり考えた結果、なんとなく答えが出たような気がするのでnoteにまとめることにした。

私の知り合いがこの記事を読んだら、こいつは気を病んでしまったのかと心配をかけてしまうかもしれない。だが、どうか安心していただきたい。この記事が公開されているということは、少なくとも自分の中では現時点での答えを出せたのだから。

いや、知り合いには今が就活の真っ只中という人が多いから、仮にこの記事を読んでくれたとして誰かの心配をしている余裕なんてないかもしれない。でもそんな人たちにこそ、読んでほしい気もする。


就活と「交換の論理」

就職先が決まったのに、なぜ私は素直に喜べないのだろう。それはなんとなく、就活が嫌いだったということに関係があるように思えた。だが、普通は嫌いなものから解放されれば誰だって喜ぶはずなのに、憂鬱な気持ちはむしろ増していた。

私が嫌いだったのは本当に就活だけだったのだろうか?と考えているうちに、私は就活全体を背後で支えている「交換の論理」を拒絶していたのだと思い至った。

交換の論理とは、近内悠太の『世界は贈与でできている』を読んだときに出会った言葉だ。

近内によれば、この論理は「『割に合うかどうか』という観点のみにもとづいて物事の正否を判断する思考法」(p. 50)だそうだ。

私にとって就活は交換の論理が支配するコミュニケーションの最たるものだ。

面接の時、企業は目の前の学生が「割に合うかどうか」を判断している。会社が支払う報酬に対し、最低でも釣り合いのとれる成果を提供してくれるだろうかと吟味しているのだ。

交換の論理が作用するのは採用/不採用が決まる瞬間だけじゃない。例えば、ESや面接で何度も使うことになる「ガクチカ」だってそうだ。

これを書く際にはただ力を入れたこととその成果を述べるのでなく、「どんな工夫や努力をしたか、そこから何を学んだか」が伝わるように書くべきとされている。

一見、学生の多様な経験を評価するための仕組みに思えるが、実際は私たちの経験を定規で測ろうとしているだけのようにも見える。
「学生時代に力を入れたこと」は採用する側が理解できるアピールポイントとして「ガクチカ」に還元される。逆に言えば、ここから漏れた経験はまるで最初からなかったかのようにされてしまう。

内定との交換ができるように大学生活が加工される。もしかすると、私たちの人生は「何と交換できるか」でしか意味付けすることができないのであって、交換できない部分は要らないのかもしれない。

そういえば、大学に入ることができたのは高校時代に勉強した成果との交換が成立したおかげで、高校に入ることができたのは中学時代に…
と突き詰めた挙句に、22年間の人生すべてが内定という大きな報酬と交換するために使われたと結論付けるのはさすがに無理があるだろうか。


世の中は交換で動いている

でもそう思ってしまうほどには、交換の論理は世の中の至るところで使われているのだと気づいた。最近誰もが関わらざるを得ない、コロナの問題もそうだといえる。

「コロナで失われる命を自粛によって守ることができるとしても、経済活動が冷え込めばより多くの人たちの生活が脅かされる」
というのは感染拡大を抑えるための自粛に反対する人たちがする主張の一例だ。

この主張は、コロナで亡くなる可能性のある(主に高齢者や基礎疾患のある人々の)命と、経済活動が停止することで失われる金銭的および人的被害を秤にかけているという意味で交換の論理に一致している。

だが、これを道徳心に欠けていると非難することはできない。なぜなら私たちの世界は交換によって、正確に言えば交換の可能性を信じ込むことによって成り立っているからだ。

長文だが、もう一度『世界は贈与でできている』から引用してみよう。

「金で買えないものはない」のではありません。そうではなく、「金で買えないものがあってはならない」という理念が正当なものとして承認される経済システムを資本主義というのです。だからそのシステムの中では、あらゆるものが「商品」となり、あらゆる行為が「サービス」となり得る。その可能性を信じ切る態度を資本主義と呼ぶのです。(p. 57)

労働は労働時間とお金の交換であるし、消費は商品とお金の交換である。学校に通ったり本を読んだりすることは知識とお金の交換であるし、病院に行って病気やけがを治すことは健康とお金の交換だ。

交換することが当たり前になってしまった世界では、人の命さえ交換可能でなければならない。そう信じ込まなければならない。

先ほどの自粛反対派の主張に関連するのだが、緊急事態宣言を延長することで何千億円、何兆円の経済損失が出ると取り沙汰されている。

ここで問題となるのは具体的な金額ではなく、そのお金でどの命と交換するかということなのだ。

経済活動を止め、得られるはずだった膨大なお金を差し出すことで感染による死者増大を防ぐことができる。その一方で経済を動かしお金を得るならば、それによって人々の生活を維持し、命を守ることができる。

だから、「感染拡大を恐れずに経済を動かせ」という主張は人命を軽視した非倫理的な考えであるとは言えない。お金で人の命を得ようとするという意味では、自粛に賛成することも反対することも同じじゃないだろうか。

ものやサービスだけでなく、時間、知識、健康、そして人自身といったあらゆるものがお金と交換されてしまう。こういう社会の中で「自律して生きる」とは、誰の助けも借りず、自分の力だけで交換し続けることを指す。

新社会人となることでこの事実と向き合わなければならないと、なんとなく気づいてしまったがために自分は就活中もその後もずっとモヤモヤを抱えていたのだと思う。


人間の成長は何のため?

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人間は困難を乗り越え成長することができる。
私は成長という言葉が好きだ。そこには人間の意志というか、上に向かって立とうとする姿勢が感じられるから。しかし、私たちは何のために成長しているのだろう?

漫画やアニメの世界ならば、それは「より強い敵に勝つため」だ。登場人物たちには鬼や巨人や呪いといった敵に打ち勝つために成長するという明確な目標がある。

では私たちの世界はどうかというと、残念ながらこれらの敵は存在しない(呪いはあるかもしれないが、少なくとも戦うべき敵としてではない)。
だから、自己の成長は交換されるものとしての自分の価値を、もっと端的に言ってしまえば自分のレートを上げるためのものになってしまう。

人間もお金と交換される世界では、自分の価値をなんとしてでも上げなければならない。そうしないと交換の対象として選ばれなかったり、安く買い叩かれたりするからだ。
「おまえの代わりはいくらでもいる」という言葉は、「同じ代償を支払うことで、おまえよりもっと高い能力を持つやつを手に入れられる」ということを意味する。

この思考は、例えば家具や家電などを買おうとする人の頭によく浮かんでくる。ある人は、同じお金を支払うなら少しでも機能が充実していたり、デザイン性が優れていたりするものを買いたいと願うことだろう。
あるいは他の人は、あまり多くのことを望まない代わりに自分が支払うべきお金を可能な限り減らしたいと考えるかもしれない。

私たちは、他の人間と比較されたときに捨てられる選択肢とならないように、不当に安い値段を付けられないように、「スペックの高い」人間になろうとする。人間の成長は商品に新機能を追加するのとほとんど同じ仕方で捉えられてしまうのだ。

あるいは、商品というよりもっと広い意味で経済の一要素として考えた方が正しいかもしれない。よく、若いうちは何事も経験と言われる。さらに、若いうちから貯金のことなんか考えず、いろんなことを学ぶために投資しろとも。それは将来の自分に「返ってくる」のだという。

経験や学びにお金を使うことで将来的な成功を得られるというこの考えは、人間の成長が交換可能、計算可能であることを如実に表している。

この考えによれば銀行にお金を眠らせておいたり、株などに投資して利益を狙ったりするより、自分に投資する方が長期的に見て得をするということになる。しかし、人間はいつから銀行や金融商品と同列に語られるようになってしまったのだろう。

さっき私は「22年間の人生すべてが内定という大きな報酬と交換するために使われた」と被害妄想じみたことを言った。でも、交換はこれが最後ではないのだと思う。

これから私はスキルを身につけ、知識を吸収し、経験を積むことで成長していくのだろう。しかし、それはどんな相手もやっつける無敵のヒーローになるためではない。来るべき交換に備えて、自分の価値を高めておくためなのだ。


交換されるのではなく、呼ばれるひとへ

私が感じていた違和感の正体はこれでだいぶ明らかになったと思う。しかし、これでこの記事を終えてしまうわけにはいかない。
この世界は交換の論理が支配する、人間をものみたいにしか扱わないどうしようもない世界です、だからこんな世界からは逃げ出して楽しく生きましょう、では何も解決したことにならない。

せめてどうやったらこの世界とうまく付き合っていけるかくらいは考えないと、少なくともここまでこの記事を読んでくれた方に申し訳ないし、何より自分がこれから生きていくことができない。

私は「天職」という言葉に解決策のヒントを見出せるのではないかと考えている。これまでずっと天職とは、ある人の能力と職務内容が完璧に一致するような仕事を指すのだと思っていたが、どうやらそれでは不十分らしい。

天職は英語ではcallingと言い、元々は「神によって呼び出されること」を意味していたそうだ。つまり、天職に就くには自分の能力よりも先に、神によって呼ばれたときに生まれる使命感や義務感がなければいけない。

とはいえ、現代の日本を生きる私たちにとって神様はあまり身近なものとは言えない。だから私は天職という言葉を「世界中に存在する、自分以外のありとあらゆる存在の呼び声を聴くこと」だとしたい。一言で言ってしまえば「他者の呼び声を聴くこと」だ。

呼び声を聴いたとき、私たちはそれに応えねばならないという義務感に駆られる。この感覚が生じることこそが天職のための最初の条件であり、各人が持つ能力や適性はすべて後からついてくるものだ。

こう考えることは、交換ばかり迫られる世界に生きる私たちにとって助けとなる。なぜなら天職にまず必要なのは義務感であるとすることで、私たちは他人と際限なく能力を競い続ける必要がなくなるからだ。

他人との競争がなければ向上心も生まれないと考える人もいるだろう。もちろん健全な競争は必要だが、競争に勝ち残ったものだけが天職に就けるのだとしたら、最終的に世の中の役に立てるのは勝負に勝ち続けた者だけだ。

能力競争に勝ち続けることが究極の目的、唯一の人生の意味となるのであれば、ごく限られた一部の人間だけしか幸福を掴むことはできない。

世界の呼び声に応えること、それは見返りを求める行動ではない。
もしそうすれば、それはたちまち交換と化してしまう。呼ぶものが十分な報酬を支払うことを約束してくれるために、私たちは呼び声に応えようとするのではない。むしろ、助けてもらうお礼として何も差し出すものがないという弱さゆえに呼ぶものは私たちの中に義務感を生じさせる。

報酬がないからこそ、与えるものが何もなくても私たちは何かの呼び声に応えることができる。世のため人のために生きなければならないと教えられても、「私は何もできないから」「私には何もないから」と無力感に苛まれることは多い。

しかし、人生は交換することではなく呼び声に応えることだと捉えなおせば、「何もできない人」でさえ排除されることはない。あなたに何ができるかではなく、どんな呼び声に応えようとするかさえ決めていればそれでいいことになる。

他者への義務感に応え続ける人生を受動的な生き方だとみなす人もいるかもしれない。でも、きっとそうした方が自分を守りながら生きていけるのではないかと最近思う。

人はどんなときに人生に絶望するだろう。
いくらでも例は挙げられるかもしれないが、最も深く絶望するとき、それは「自分は誰からも必要とされていない」と感じたときじゃないだろうか。

自分に何ができるかを基準に生きていると、能力が不足していることが即ち自分の存在を否定される要因となってしまう。
だから順番を間違えてはいけない。初めに必要なのは呼び声に応えようとする義務感であって、そのために能力が後からついてくるのだ。

それに、他者への義務感は主体性を脅かさず、むしろその源泉になる。

M・ヴェーバー著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』によれば、プロテスタントにとって、天職に就いて蓄財することは自らが神の恩恵にあずかっていることを確信するための手段であったという。

なぜなら、天職とは先ほども述べたように神によって呼ばれることを前提としていたのであり、仕事で財を成すことは、自分を神の御心によって導かれている存在として証明するための手段であったからだ。

このことを宗教的基盤から切り離して考えると次のようなことがいえる。
世界のありとあらゆるものの呼び声に応答できること、それは自分が世界とつながって生きていることの証明となる。

どんなに恵まれていないと感じていても、命ある限り人間は他者とのつながりの中で生きる。他者の呼び声から耳を閉ざし、「私には何の義務もない」と考えることは、自らそのつながりを断つことである。

結びつきを失った人間は自由を謳歌するのではなく、ただ消えていく。なぜなら、自分を必要としてくれる相手がいなくなったときにこそ、本当に人は必要とされなくなるからだ。

何度でもいうが、能力があるために人は誰かから頼りにされるのではない。
誰かとつながっていようとする限り、呼び声を聴こうとする限り、人はいくらでも頼りにされる。世界は交換だけで成り立っているようにみえるが、それは呼び合う関係が土台となっていることを忘れてはならない。

だから「自分は何も差し出すことができないから」と自分の存在の無意味さを嘆く必要は全く無い。世界の呼び声に応えようとする姿勢さえあれば十分なのだ。


「ただの交換」と思って

そろそろ私がこれを書き始めるに至った原因に戻って、記事の締めくくりをしよう。私は就活を終えたが、いや終えたからこそ、社会で生きていくということが交換し続けることであることに向き合わなければいけなくなり、それに嫌気がさしていた。

これから新社会人として生きていくことが、自分をひどく冒涜されているようで嫌だった。
能力を身につけ成長することが、人の交換価値を上げるためだけに使われるようで嫌だった。
交換と計算に適さないものがすべて否定されるようで嫌だった。

だが、人間が生きていくことの根本にあるのは交換ではなく、他者に呼ばれることであるとすれば、こうしたことに心を悩ませる必要もない。所詮交換では私の人生の意味が汲み尽くされることはない。意味は交換からではなく、呼び合う関係から生まれているからだ。

交換は成立しなければならないから、本来秤にかけられない人間さえも定量化し、測定可能にすることで社会を成立させている。それはそれで必要な操作なのだが、これを当たり前の事実だと思い込んでしまうことに問題がある。

対して呼び合うことは、人間の交換不可能な部分を保ちながら社会を成り立たせようとする。他者の呼び声は、私たちが耳を塞がない限りいつまでも聞こえ続ける。それは交換の不可能性そのものを表してもいるのだ。

こちらから何を差し出そうとも呼び声が満足して止むことはないし、どんな能力も呼び声との交換を終わらせることはできない。

交換ができない状態こそが人間関係の本質であり、いわば私たちは世界から求められているものに十分に応えられていないという負い目を、返しきれない負債を抱えている。そうすることでのみ、自分を見失うことなく生きていくことができると思う。

交換も必要なことだ。とはいえ、それは人生の目的ではないし、人の生きる意味のすべてではない。交換は呼び声に応えるための手段を確保することであり、それは形式上やる必要があるからやっているだけに過ぎない。

多くの人が悩むであろう就活だってそうだ。人は誰かの呼び声に応えるために働く。しかし、一人でできることは限界があるから、企業に入って多くの人と力を合わせることで目的を達成しようとする。就活はこのための手段であると割り切ってしまえばいい。

ここではこれまでの人生も、お金も、時間も、自分の思いもすべて形式に従って一旦は交換可能な資源になる。だが、呼び合う関係を築く人間の内面性そのものを交換することはできない。渦を巻くように連鎖し、社会の表皮を作る交換の奥底に、人間の内面性は傷つけられずに眠っている。

内定を目指して就活することも、よりよい待遇のためにスキルアップすることも、世界の呼び声に後からついてくる交換の一形式に過ぎない。それがうまくいかなかったところで、どうってことはない。

冒頭で私は就活をしている人にこそこの記事を読んでほしいと書いた。しかし、これは決して先に就活を終えた私が今就活中の人たちにアドバイスをしてやろうとか、そういった意図で書いたわけじゃない。

むしろ、これは私の決意表明だ。交換ばかりの世界に悲嘆するのではなく、それと正面から向き合いつつ、しなやかに生きたい。そのために現時点で私が編み出した術を書き連ね、それをこれから実行するという意志を示したかった。

そもそも、アドバイスなんて偉そうにする立場じゃないのだ。私は就活という「ただの交換」の一つを終わらせただけで、何も成し遂げていない。

ただ、この記事が少しでも誰かの声に耳を傾け、それに応えることができていたとすれば、私は就活を終えてから初めて自分を誇らしく思える気がする。

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