イジン伝~桃太朗の場合~まとめ(XXII~XXVIII)
目が離せなくなった。「何か悩みでもあるのかよ」
「あるけど。でもそんなんじゃないんだ。運命とか、そういうものなんだと思う」
「運命だって。冗談だろ」
猿野は苦笑して木地川の顔を覗き込んだ。彼はにっこり微笑んで答える。
「うん。冗談」
猿野は気味が悪くなって膝を抱え込んだ自分の手をきゅっと握った。力んだ拳はあの女と同じように白く濁った色をしていた。目をつぶる。「俺たちは若いんだ。死ぬなんて分かってたまるか」
木地川も拳を握ってもう一方の手で感触を確かめるように撫でて言う。「そうだね。僕らは若いんだよね」
不意に静かだった体育館が騒がしくなって固まっていた空気が雪解けるように流れ始めた。しゃがんだ二人に鉄扉の隙間から淀んだ風が吹き込んでくる。その雑然とした音の中にこつこつと一つの足音が近づいてくるのが分かった。二人は飛び上がりトイレに身を隠した。
「説明会ってこんなに早く終わるんだっけ」
「知らねえよ。とにかく今見つかったらめんどくさい。お前さっきみたいに絶対声出すなよ」
足音の主は体育館を出るとすぐさま鉄扉を閉じて大きなため息をついた。苛立たしげになにか呟いている。猿野はトイレの横戸に耳を当てる。
「たかが……私が煩わされる……放っておけば……なのは第一検体だけ……忙しいというのに」
歯の間から漏れる呼気がかろうじて声の体裁をとっており、内容は途切れ途切れにしか聞こえてこなかった。しかし猿野には声の主が誰なのかはすぐに分かった。一目見たいという衝動を抑えて耳に神経を集中させる。
「もう他の検体は……おけばいいのだ。中央は……私は……では終えているところも……」
声は徐々に離れていき聞こえなくなった。猿野は興奮を抑えられなくなって木地川の肩を揺さぶる。「おい、今の誰だったかわかるか」
木地川は「さあ」とさも興味がないように首を傾げる。「それよりも桃太くんを探そうよ」
「桃太なんてどうでもいいよ。今のハカセだぜ。鬼怒井校長だ。この国で一番偉い人だ。校内放送で聞いた声と写真しか知らない、それくらいレアな人なんだぜ。すごいとか思わないのかよ」「それよりも桃太くん」
がらがらと重い音、体育館の鉄扉がもう一度開けられたのに気づいて二人は会話をやめる。保護者たちが出てきたのだ。ぴこたんぴこたん。スリッパがいくつも通り過ぎていく。不思議なくらい静かだった。雑談一つない。
「教室戻ろうよ。もしかしたら桃太くん帰ってきてるかもしれないし」
猿野は「いやだね」即答した。「今俺が教室行けるわけねえだろ」
――泣くな――
突然外から怒声が聞こえて二人は固まった。
それが自分たちに向けられたものでないとわかると二人は再びドア越しに耳をそばだてる。女性らしき人物がすすり泣いているのが聞こえた。さっきの大声は男声だった。
――泣くな。これはお前一人の問題じゃないんだ。俺らみんな決まってたことじゃないか。だからこれまで精一杯生きようとしてきた。そうだろ。それなのに泣いたりしたら決意がゆるいじまう――
――わかってる。わかってるわ――
――いいや、わかっちゃいない。そんなんじゃ家に帰ってから子供たちに気づかれる。この秘密は保護者の役割を与えられた俺たちの内で留めておかなきゃならない。……人類のために。だから立て――
短い悲鳴、かちゃかちゃと装飾品の相ぶつかる音がした。男の鼻息が荒い。
――あんた、奥さんを放してあげなさい。これは感情の問題。怒鳴り声をあげても解決せんよ。それにお互い先は短い。仲良くしたほうがいいとは思わんかね――
「これって」「ああ」二人は聞き覚えのある老いしゃがれた声に頷きあう。
――ふん。おっしゃるとおりだがね、桃太のじいさん。アンタに言う資格はないんじゃないか。アンタんとこのは特別製らしいからな。その見かけからするとアンタ方も俺らとは違うんじゃないか――
――ふふ。そうなんですよ。肌のお手入れもかなり大変でねえ。歳取ると女性は大変よ。ほら、あなたもう大丈夫かしら。そんなに泣くと綺麗なお顔とメイクが台無しよ。ほら――
服もしわが寄っちゃうわ、老女の声は優しく木琴のような響きだ。女性が鼻をすすりながら
――ありがとうございます、桃太くんのお母さん。もう大丈夫です。私自身のことはどうでもいいのですが、娘のことを考えるとどうしても。でも、母親が悲しんでいる場合ではないですね。元気でいないとあの子が可哀想。桃太くんのお父さんもありがとうございます。夫が失礼しました。さああなた、行きましょう。パパも手伝ってくれないと困るわ。今日は頑張ったあの子にパーティーを開きましょう――
男は不満げに鼻を鳴らしたがそれきり廊下はスリッパのぴたこんが続いて、しばらくするとそれもなくなって蛇口から落ちる水滴の音が残るだけになった。
「なんかすごい話聞いちゃったね。覚悟だとか人類のためだとか。それと先が短いとか。さっきトイレにいた人もおんなじようなこと言ってたよね」
木地川は眼鏡を外して目を瞬かせて言った。猿野はそれに応えずに格子型に溝の入った床を睨んでいる。ラベンダーの芳香剤が今になって主張し始めきつい匂いで彼は軽い頭痛を感じていた。
「そういえば桃太くんが特別、なんて話もしてたよね。桃太くんのお父さんたちは冷静に答えてたけど。僕はちょっとそっちの興味も出てきたな。やっぱり桃太くんを探そうよ。たぶんこっちとは反対側、特別教室棟にでもいるんじゃないかな」
「そうだな。桃太とは一度話してみないといけなさそうだ」
目が輝いた木地川をしかし猿野は手で制し「だけど今じゃない」
「みんなの話をつなげて考えるとどうやら今ハカセが探してるのは桃太のようじゃないか。人類のため、もうすぐ死ぬ、結構じゃないか。なんだか俺もちょっとあいつに興味が湧いてきた」
この話を教室に持ち帰ったら今度こそ俺は人気者に、という本音は伏せて猿野はほくそ笑んだ。
「桃太の話はいつだって聞ける。だからさ今は」
猿野に耳元で囁かれ木地川は口をへの字に結んだ。「大丈夫かなあ」
二人はそっとドアを開け、周囲を気にしながら廊下を進んだ。
「目指すは校長室だ」
校長室は職員室の隣りにはなく、この学校では教室棟の隣に設けられた独立棟に存在する。校長たるものまずは生徒と向き合わなければならないからというハカセの教育論が反映され教室棟の近くにその執務室を設けたらしい。
しかし実際のところ彼女の姿を教室棟で見かけたことのある者は皆無で、あの建物では他人には決して見せられない実験、例えば禁じられた錬金術だとか人体実験が行われているのではないかという冗談が生徒の間ではじめましての挨拶代わりに交わされる。雪原にたった一輪だけ咲く百合の花のような、凛とした彼女の美しさを入学手引の写真で知った生徒は上級生たちからその冗談を聞いて、なぜこの学校の校長は白衣を着ているのかという疑問に一応の決着をつけるのである。
「本当に行くのかい」「このチャンスは逃せないだろ」
猿野と木地川の二人は独立棟に向けて伸びる渡り廊下の入り口まで来て二の足を踏んでいた。渡り廊下には壁がなく板敷き床の二倍ほどの幅を持った屋根がついている。半外という環境にも関わらず床は磨いたように光っている。突き当りには観音開きの大きな木製の扉があり表面には何やら文字が記されているようだが二人の位置からは小さくよく見えない。
授業終了まであと十分。袖の下に隠していたリストウォッチを確認して猿野を意を決した。内履きを近くにあった掃除用具入れに放り込むと駆け足で渡り廊下へ踏み込んだ。慌てて木地川も続く。
傾斜の強い屋根は庇が彼らの胸の高さまであって、風力学が考慮されているようで内側にはほとんど風がなかった。むんと充満した濃厚な木の香り。木造の屋根は梁がむき出しになっている。普段感じることのない植物の香りを吸い込んで猿野は酔ったような高揚感に包まれる。
長く見えた廊下をあっという間に渡り切り、緊張が緩んだ拍子に二人は顔を見合わせてくすくすと笑い出した。
「案外簡単なもんだな」「そうだね。なんか罠でもあるのかと思ったけど」
目の前にした大門は装飾といった装飾は施されていない。にもかかわらず、漆塗りで鈍く輝く濃赤色が威厳と重厚さを演出している。門の上には特徴的な姿をした三匹の猿。
「お母さんの研究資料で見たことあるよ。たしか“見ざる言わざる聞かざる”っていうんだ」
そして門の合わせ目をまたいで黒の筆字で綴られた一文。“真実は時に人を遠ざける”。
猿野が押し込むと、重い手応えを感じたものの門は止まることなく開いていく。笑顔は消えていて、二人は呼吸を忘れ開く門を見つめていた。二人を急かすように風は後ろから門に吹く。
中に入ると門は自動で閉じた。押せば外へ開くので鍵がかかったというわけではないようだった。木地川が感嘆して奥へ駆け込む。
「広いねえ。僕らの教室二つ分くらいあるんじゃないかな」
独立棟の大きさから校長室の他に数室設けられているだろうと思っていた猿野は面食らっていた。部屋は一室、見たところ他の部屋に通ずるような扉や階段はなかった。外見の東洋的装飾と打って変わって室内は洋装だ。床は白黒二色数平方センチの正方形が交互に配されたモザイク模様。壁は左右正面を使った油絵の拡大画となっている。上半身のはだけた女性が片手に旗を、片手に長銃を握り民衆の先頭に立っているのが印象的な一枚、ウジェーヌ・ドラクロワ作『民衆を導く自由の女神』。
床のモザイクと壁の絵画のスケールが全く釣り合っていない。焦点が定まらず視界が揺れるような感覚に猿野は気分が悪くなっていた。部屋の奥に設えられた大机に集中して気を紛らす。この部屋にはそれ以外の調度品が見当たらなかった。
弟の一人が本日誕生日です。彼にまた一人の弟がレミオロメンさんの『3月9日』を贈っています。名曲ですよね。
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