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神様はどこにいるのか

 写真のペンダントは息子の遺髪を埋め込んだものだったのですが、2017年9月に紛失してしまってます。

美しいロザリオ

 昨日 クリスチャンの友人にあって、美しいロザリオを見せていただく。それは、19世紀始めのものとのことだが、もしかしたら18世紀終わりのものかもしれないという、美しいロザリオのアンティーク品でした。彼女はそれをファッションで手に入れようとしたのではなく、敬虔なカトリックの祈りの道具(聖具)として手に入れてました。私はそれをSNSで写真を見たときに、そのことにとても興味を抱き、別件でお会いする話だったのにもかかわらず、持ってきて見せていただくようにお願いしたのでした。

 吉祥寺でそれを見せていもらい、「ロザリオ」というのは首からかける 十字架という意味だけでなく、祈りの時の回数を数える道具でもあることを初めて知ったのでした。本当に自分というのは全くモノを知らない人間なんだと思う。

 彼女は優しくて、いつも穏やかだ。いつも出入りしてる写真ギャラリーで知り会った。宗教というのは、不思議だといつも思う。人の心に寄り添いながら、時たま人を争いをさせたりする。私は元から無宗教の人間であったが、典型的な日本人で葬式は仏教(お墓も仏教)で、初詣と結婚式は神式であげて、小学生の頃は、友人が居たので、日曜礼拝にも行っていた。以前いた職場(大学)ではイスラム教の留学生もたくさんいて、ラマダンを知ったり、ハラル食の事も勉強した。普通に生活して、パワースポットへ行ってみたり、人並みに神頼みもしたはずだ。

「神様 お願いします」

誰にお願いしていたんだ?どの神様なのか?

 だからこそ彼女にいい機会なので色々と「神様」について聞いてみた。「どうして洗礼を受けたの?」「どうして仏教でなく、他の宗教でなく、キリスト教なの?」と結構図々しい質問にもかかわらず、彼女はニコニコして話してくれた。私は興味があったのだ。「神様(宗教)が心の支えにになる」ということに。

神様はいるのか「主は与え 主は奪う」

 私は2005年の8月から「神様」とかいうのはもう一切信じなくなってました。初詣も行かないし、パワースポットも信じてない。息子のお墓は仏教式でお寺にある。でも、それは後を追うように亡くなった祖父をお墓に納める時に、夫に懇願されたからだ。「おじいちゃんが一緒だから、寂しくないから、大丈夫だから、お墓に納骨しよう」と。別に 私は、家にずっと置いておけばいいと思っていました。でも、そのことで私がずっと、悲しみに引きずられていくのではないか?と心配していたのがわかりましたので、その通りにしました。でも、分骨をしてあって、それは家に置いてあります。

 またなぜこんなにもキリスト教について、興味を持ったのはニュースで横田早紀江さんが、何かの機会にこの聖書の一節を読んで、心の支えになったことを知って、ますますずっと気にしていたのもある。その時は、その一節を思い出せなかったので、話してないが、今日思い出したのでこの文章を書くことにした。

私は裸で母の胎からでた。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。(ヨブ記 1:21)

 これを読んで、横田早紀江さん(横田めぐみさんのお母様)が「この言葉を聞き、初めてゆっくり息ができた。自分と娘の悲しい人生も人智の及ぶところではないのだ」とある本にあったとどこかで見た記憶がある。

 ヨブ記は簡単にいうと、自分の子供と家族を一気に失ったヨブの話です。でも、彼はそれを彼は最終的に受け入れる。納得しているわけではないが、そのことで自分の悲しみと苦しみに対して、何かを見出したのです。

 私は理解できなかったのです。

神様というものがいるならば、なぜそのようなことをするのか

なぜ私から息子を奪っていったのか。

今でも多分、理解できてないと思います。

病院で集中治療室のドアの前で「ご両親がお揃いになりましたので、ご臨終の時間をこの時間とさせていただきます」と医者が私に告げた時に私は大声で叫んだのを覚えています。錯乱してました。

「こんなこと 神様がお許しになるはずはない!」

その神様は誰なのか?

ニーバーの祈り

次のイベントの時間があったので、彼女と一緒に店を出て、移動しながらまた聞いてました。「神様はお願いを聞いてくれるの?神様は助けてくれるの?」全く、図々しいと言うか、情けない質問だと思う。でも、彼女はニコニコしてこう答えてくれた。

「神様はお願いを聞いてはくれないんだよ」

「じゃあ?なぜ信仰するの???」

彼女は穏やかに笑ってこう言った。

「神様はお願いを聞いてくはくれない。助けてくれない。問題も解決してくれない。自分で答えを見つけないといけないの。でもね、神様はいつも『私に寄り添ってくれる』のよ。そして『私は一人でない』ということが私の救いになるの」

。。。この答えは結構衝撃を受ける。もちろん、聖書のヨブ記もちゃんと勉強してないので、本当のヨブ記の意味がわかってないので、大変申し訳ないと思ってます。でも、彼女が言ったこの言葉は、なんかふと腑に落ちた気がしたのでした。

 それは、私が息子の事故があった時に、ある祈りの言葉に出会った時に神様は信じていないと言いながらも、胸をかきむしるような悲しみと苦しみの中で、この祈りの言葉をノートに何回も何回も書きなぐっていたのでした。信仰心はなかったと思う。

O God, give us
serenity to accept what cannot be changed,
courage to change what should be changed,
and wisdom to distinguish the one from the other. Reinhold Niebuhr

「変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。」

私はもしかしたら、理解したかったのかもしれない。

48歳からの写真作家修行中。できるかできないかは、やってみないとわからんよ。