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計算する生命の正体とは

私は高校時代、数学という学問を嫌いになった。中学校までは何となく塾に通い、問題に対する解き方のパターンを理解していくこと(つまり操ること)のみで受験を乗り越えていたことを思い出した。しかし、高校で習う数学の理解には、今まで行っていた方法ではまったく通用しなかった。つまり私は、記号を操っていた。しかし操り方のみでは、高校数学の本質はおろか表面すらも理解できなかったのである。この本を読む中で、上記のような事を思い出したのである。特に、本書内の

「わかることと操ることの緊張関係を保ち続ける」

という表記にはひどく心を打たれた。数学のこれまでの歴史を紐解くと、操ることを何度も繰り返した先には、必ずわかるという瞬間が現れる。常にわかることと操ることは背中合わせの関係だというのである。しかし、私は操ることすらもできていなかった。だから、わかることがついてこなかったのだと少し反省した。しつこく意味のない操作を繰り返したその先に、理解が訪れることを本書で紹介されている数学の思考の変遷から感じることが少しではあるができた(ような気がする)。我々の認知能力は、古代からまったく変わることはない。もちろん、脳の大きさも変化はない。しかしながら、我々は科学技術が発達していくと、次第にそれらを生み出す人間の認知能力も発展していっているのだと錯覚を起こす。しかし、過去から数学(的思考)を生み出してきた我々人間は、参照できる意味の解釈なく物を動かしてきた。つまり、我々は頭だけで考えることよりも、目や手で物を操ることの方が大変得意な生き物である。計算も、元々は頭の中だけでするものではなかった。今一度、”学ぶ”姿勢を見直さなければならないと私は感じた。
そして計算はできるようになった、記号を操ることのみで。現在我々が当たり前のように用いている算用数字の普及が、「意味」から私たちを解離させ、「操作」への没入を手助けする。まさに私は、この記号操作を算数から行い続けていたのである。
現在、私はデータサイエンスの研究に着手している。web上に転がるアルゴリズムを駆使し、数値同士の関係性をコンピュータがひも解いてくれるのをただただ待つ。まさに、肝心なのは意味よりデータ、理解よりも結果である世界の中に住まう。過去のデータを用いて、未来の動きを予測する。この本書の言葉を借りるなら、未来を過去に食わせる。現在のようなデータドリブンが強く求められる時代だからこそ、再び個々の数字が持つ意味を再考し、自律的な思考と好意から新たな意味を生成していくことを心がける。


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