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分かりそうで分かりにくいヨーロッパ

①アテネとスパルタの衝突、アレクサンドロス大王の東方遠征


世界史は、我々人間にとって住みやすい気候の地域で起こります。なぜなら、我々人間が住みやすい気候は、農作物も育ちやすいからです。現在のギギリシャあたりもそんな地域でした。

古代ギリシアは、エーゲ文明の次に生まれた文明でした。古代ギリシアには、ドーリア人やイオニア人など、言語などの違う民族がともに暮らしていました。対立はもちろんありますが、オリンピックの起源になったオリンピアでは、ともに競い合ったりもしました。(仲がいいのか、悪いのか、、、)
しかし個々の民族は、それぞれ別の都市国家に暮らしました。それらの中で、代表的だったのがイオニア人のアテネとドーリア人のスパルタです。この二つは、言語も違えば社会構造も全く違う。アテネは、この時代から民主主義を確立していました。ハンパなく進んでますよね(笑)一方スパルタは、5000人のドーリア人が、征服した土地の周辺民族と商工業者合わせて7万人を統制していました。いわゆる軍国主義です。考え方は違えど、同じギリシア人。中東の国アケメネス朝ペルシアが攻めてきたときには、お互い協力してギリシアを守りました。勝利したアテネは、ペルシアの再戦に備えて周辺地域と同盟を組みます。一方、スパルタは気が張っていたのか、アテネの思惑を”ギリシアの主導権の獲得”であると誤った解釈をしてしまい、アテネに攻め込んでしまいました。
ギリシア内の混乱を静かに影から見ていたのは、お隣のマケドニアでした。このチャンスを逃すまいとギリシアに攻め込み、支配下に治めます。そして、マケドニアの王はアレクサンドロス大王になりました。東方遠征を行い、インドまで攻め込みました。

②ローマ帝国の繁栄と崩壊

ヨーロッパに統一性をもたらした要因の一つが、このローマ帝国です。ローマ帝国は、最初共和政でした。共和政とは、皇帝や王などの国を統一する人間がいない状態です。となると、やはり権力を握ったのは”貴族”でした(実はギリシアを初めは貴族が政治を独占)。元老院や執政官などの政治を制御する役職を、貴族が独占していました。民衆が参政権を求めて立ち上がり、なんとか法律を作る立場を獲得しました。しかし法律を運用する立場には、変わらず貴族がついていたため、平民と貴族との溝は一層深まりました。平民と貴族との対立を抑制するため、政治体制は共和政から三頭政治へと移行していきました。三頭政治とは、政治を指揮する人間が三人いる体制のことです。しかしトップが三人いると、案の定争いますよね(笑)ということで、計二回行われた三頭政治の一回目は、カエサルが勝利しました。しかし、全幅の信頼を置いていたブルータスに殺されてしまいます。

「ブルータス、お前もか、、、」

このセリフは有名ですよね(笑)次の二回目の三頭政治で、やっとローマ帝国の初代皇帝が誕生します。この皇帝がお見事であったのは、独裁政治を行おうとして殺されたブルータスを見ていたからなのか、自らを「第一の市民」と言い放ったところです。やっぱり人間て、言い方ひとつで態度が変わるんですね(笑)注意された人が、”言い方”に対する文句を口にしているのをよく耳にします(笑)言い方には気を付けよう!!てことで、ここからローマ帝国内で信者を増やし、権力を大きくしていくのが世界三大宗教の一つ、キリスト教です。

③民族大移動と西ローマ帝国分裂

ヨーロッパに”統一性”をもたらしたのは、ローマ帝国とキリスト教の普及でしたが、”多様性”をもたらしたのは民族大移動でした。気候の影響なのか、領土争いなのか。始まりはフン族という民族が、東アジアからヨーロッパに流れ込んできたことでした。このことにより、ゲルマン民族が西ヨーロッパに次々に移動し、国を作ります。ゲルマン民族の大移動に引き続き、北ヨーロッパのノルマン人も南下してきました。さらにフン族の帝国が滅びると、空いたスペースを埋めるかのように、スラブ人も移動しました。このスラブ系の人々は、国家や宗教によって様々に区切られています。だから、東ヨーロッパの国々は、細かく分裂している。ゲルマン民族の中で、特にフランク族が建国したフランク王国が、西ローマ帝国が滅びた後に力を持ちました。ピピンの息子、カール大帝はローマ教皇3世から西ローマ皇帝に任命され、フランク王国がキリスト教(カトリック教会)の後ろ盾を行います。しかし、カール大帝の死後、3人の息子によってフランク王国が分裂します。それが、西フランク王国(後のフランス)、東フランク王国(神聖ローマ帝国を経てドイツ)、そしてイタリアです。そして、オットー1世を再び西ローマ皇帝に任命した教皇がどんどん権力を拡大します。他方東では、民族大移動の混乱を免れたオスマン帝国が強大化していました。

④ローマ教皇の隆盛と衰退、そして十字軍遠征

カトリック教会は経済力を高めていき、次第に権力が教皇の手に移っていきました。カトリック教会の聖職者は、課税がなく、ワインやチーズなどの販売を行い、農民から徴税を行いました。これは、ぼろ儲けでしかありません。多くの民衆が聖職者が儲かることに気づき、聖職者になる人が殺到しました。この様子を見た教皇が、聖職者の任命権を教会の独占権とし、皇帝から任命権をはく奪しました。これを受け、皇帝が教皇に反発。しかし、この時すでに教皇は絶大な影響力を獲得していました。

「じゃあ、破門、、、ね??」

教皇からの破門は、「神聖ローマ帝国からの追放」をも意味していました。そして、諸侯たちからの信頼もすでに失っていました。皇帝は一人、雪道を裸足で歩いていました。向かっているのは、カノッサ城です。そこで、教皇に一言。

「逆らってすいませんでした!!!!破門をといてください。足冷たっっっ!!」

これが有名な”カノッサの屈辱”。この拷問は、三日間も続いたそうです。
一方東の方では、ビザンツ帝国がイスラーム教徒に聖地エルサレムを占拠されていました。西ヨーロッパにSOSを求めた結果、教皇の招集により会議を開き、十字軍の派遣が決まりました。しかし、結果は散々なものでした。この十字軍遠征の失敗により、教皇の権威は失墜しました。ここから、皇帝と教皇の立場は交代し、教皇は捕らえられてローマからフランスに連れていかれました(バビロン捕囚)。そこで、教皇は憤死。憤死とは、怒りすぎて死んでしまうこと。歴史上でも滅多にありません(笑)
ただし、この十字軍遠征。悪いことばかりではありませんでした。それは、商業の発達でした。地中海を経由してアジアと交易を行い、北イタリアのベネチアやジェノバが発展しました。さらにドイツの権力が、七人の諸侯に分配されたことで、ドイツ内の交易拠点も活性化しました。ハンザ同盟を結んだ北ドイツ、羊毛の生産地である北フランスと北イタリアとの中間点である南ドイツ・フランスも発展しました。十字軍遠征の際に、道路が整備されたことで、ヒトとモノの交流が盛んになりました。

(感想)


ヨーロッパの古代から中世の流れを見てきましたが、いかがでしたでしょうか。ヨーロッパの歴史は、まさに”統一性”と”多様性”の混合。一見、相反する二つの性質をうまく融合しているように思います。現在でも、多くの民族の共存によって、ヨーロッパの情勢は左右されます。多民族・多宗教。互いが尊重し、認め合う文化がヨーロッパにはあると思います。実際に、ヨーロッパに行ってみたくなりました(笑)

Thank you everyone!!

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