ランニングは最高の退屈しのぎ
昨日の悔しさを覚えているうちに、走ろう。
タイムは気にしないまま、帰ってこられる分のスタミナを残しつつただただ走る。
あてにならないGPSのアプリでしたけど、参考にする程度なら、と思いながら使っていました。
結果は4.6km。どの程度の誤差があるかはわかりませんが、体感的には納得。
この納得感は「4.6kmを走り切ったぜ」みたいな感じではなく、体感的にそのくらいの距離になるよね、という感じのもの。
もうちょっと長い距離を走れるのかな、と思っていましたけど、今の私にはこのくらいの距離が限度なのかもしれません。
その意味では色々と残念。悔しさを晴らすために走っておいて、再び悔しさが込み上げる。
この悔しさは、なんなのだろう?
「自分ならもっと走れるはずなのに」から生まれているとは思うのですけど、その根拠はどこからくるんだ?と不思議になります。
何年も運動らしい運動はしないままで、それどころか持久力が求められるようなことからははっきりと距離をとっていたような生活をしていました。
持久力が落ちていて当たり前だろう、と思うことはあっても「自分なら走れるはず」と思っているなんて「驕り高ぶっている」以外のなにものでもないでしょう。
しかし、私としては、この「根拠のない自信」みたいなものは大事だと思っているのです。
下手をすると「できなくて当然」と自分自身に期待しない気持ちが芽生えがちな中年を過ごしているわけなので、どこかで、何かで、自分を奮い立たせないと駄目なんじゃないだろうか?と思うのです。
「できて当たり前」みたいに自分自身を追い込んでいくのもまずいでしょうけど、「できなくて当たり前」みたいに自分自身を過小評価するのは、人生が面白くないと思うんですよね。
挑戦することが減っていく40代。
自分自身に挑戦!とかを言いたいわけではないですけど、自分のことくらい自分が信じてやっていいと思うんです。
5kmくらい軽々と颯爽と走れるでしょ。
根拠なんてないけど、そう思っていました。
実際は3km過ぎくらいからゼエゼエ言いながら走るわけですけど。
何歳になっても、自分に負荷をかけることはやっていきたいと思うんです。
人は良くも悪くも環境に適応する生き物ですから、負荷のかからない環境に身を置けば、それなりの体や思考になります。
負荷をかけすぎれば壊れます。
そういうのを見極めながら暮らしていければ、退屈しないで済むと思うんですよね。
多分ですけど、人生では退屈が1番の苦痛じゃないか、と思っています。
色々なやり方で、脳に刺激を送って退屈から逃れようとしていますけど、私としては走りに出かけるのが刺激の入れ方として極上だと思っています。
瞬間的な快楽じゃないし、持続させるかどうかを自分で決められるし、刺激の強さも自分で決められる。
他人に操作干渉されないなんて最高です。
それでいて体も強くなっていきますしね。
親子ランの2kmの大会が終わったので、距離を伸ばして走ろうと思っています。
そうすると休養や仕事との兼ね合いが出てきますね。(2kmだった10分程度で終われたので)
とりあえず30分くらいをルーティーンにしてみて様子を見ようと思います。
毎日はきついな、多分。。。
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