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社会的、心理的な意味としてのキョウイク

キョウヨウとキョウイクの話をしてきた。

キョウヨウのことについては、だいぶ理解が深まった気がしている。

誰に教わるでもなく、誰に教えるでもなく、自分勝手に自分の中で掘り進めているだけなのだけど。それで全く構わない。

実践しながら、考察して、紙に書き出して(noteに書いてみて)、整理して、理解していく。

紙に書き出したものをできる限りの他人目線で読み、何言ってるのかわからない部分を探し、温めておいて、後々考え直す。

そんな風に1人でああでもない、こうでもない、とやっている時間が、昔から好きなのだ。

子供の頃からそうだったような気がしてきた。人付き合いが下手なのは変わらない。

大人になってから飲み会とかで出会った人の中で、自分自身のことを「人見知りするんです」ってにこやかに話してくれる人がたくさんいた。

人見知りする人が、こんなににこやかに、しかも大勢のいる飲み会で会話できるのだろうか?(しかも、その人の話は面白かった)

そんな疑いは常に持っていた。

人見知りっていうのは「初対面では緊張して上手く対処できないけど、慣れてきたら大丈夫」みたいなことを言うのだろう。

私の場合は、初対面だろうが慣れてこようが、人とのコミュニケーションの時点で「何かが切り替わる」感じがする。

初対面でも難なくコミュニケーションできる場合もあれば、何回会っても慣れない人もいる。

私の場合は、人見知りしていると言うよりは、「強く生存本能が働いている」感じに近い。

私にとって危険な対象かどうかを、瞬時に判断する装置が働いている感覚がする。

そんなこと、誰でもそうなのかもしれない。

そうだとしたら、さっきの「人見知り」の定義がおかしくなるのではないか?

初対面だけ苦手だけど、慣れてきたら大丈夫。それは「危険な人」が相手でもそうなのか?

もちろん、わかりやすく「危険な人」には、そもそも慣れないだろうから除外する。

本当は自分にとって「危険な対象」なのに「慣れて」きたから警戒態勢を解く、みたいなことが起きているのだとしたら「人見知り」って危ない状況なんじゃないか?と思ったりする。

まあ、考えすぎだろう。いつもそうだ。妄想に過ぎる。

そんな風に警戒態勢になるものだから、多くの人が一堂に会する場面が本当に苦手だ。

むしろ苦痛に近い。

耳の影響もある。大勢が同じ空間で、一斉にランダムに話すと、その話し声でおかしくなりそうになる。

もちろん、おかしくはならない。

よくできている私の体と脳は「音を遮断」することで対処するから。

つまり、よりリアルな意味での「聞く耳持たない」状態になる。

その結果、当然だけど、コミュニケーションが困難になる。

だから、大勢が集まる場所は「知っている人の有無、話せる相手の有無」を問わず、行きたくない。

長くなった。今回はキョウイクの話をしたかったのだ。

キョウイク=今日行く場所がある

と父から聞いて、なるほど、と思ったのがきっかけだ。


最初は「出かける予定がある」という単純な理解でいた。

出かける(移動する)ことで、運動機能が保たれる。代謝活動が促進される。そういう見方でいた。

生物的な考え方だ。

けれど、それだけではないな、と思うようになった。

キョウイクは「社会的な居場所」のことも指しているのだろう。

「心理的な拠り所」の意味もあるかもしれない。

出かけた先でのコミュニケーションや活動によって、自分自身を保つことができるのだとしたら、年齢問わず「キョウイク」は重要な存在だ。

ある場所に移動する、という運動の意味で「キョウイク(今日行くところ)」を捉えていたけど、もっと大きな意味がありそうだ。

そういう意味では私にとっての「居場所」は「人が(大勢)集まる場所」ではなくなってくる。

自宅であり、庭であり、散歩で向かうところなのかもしれない。

人が集まるところは、知っている相手だろうと、慣れ親しんだ相手だろうと、コミュニケーション上の緊張が生まれる。

社会的な役割を果たす環境であるかもしれないけど、心理的な拠り所という感じではない。

あくまで、私の場合は。

他の人にとっては、仲間、友達、などの人との直接的なコミュニケーションは癒やしになる可能性が大きいと思う。

人との出会いが制限されつつある昨今、それはいろんな場所から声があがっていた。

自粛と呼ばれる生活スタイルは、私にとっては苦痛ではなかった。

と、いうよりもこれまでの生活とあまり変化がなかった。

胸を張って、堂々と「飲み会に行かない」で済むし、不特定多数が同時に話しているような場面に出かけることも無くなった。

けれど、そのことで「キョウイク」先は限定されてしまったのかもしれない。それがポジティブなのかネガティブなのかはなんとも言えない。

まてよ。

ポジティブかネガティブか線を引かないといけないのか?

そんなわけないだろう。

ポジティブでもネガティブでもどっちでもいい。

ただ、運動の意味も含めて「今日、出かける先」は持っていた方が健康に貢献するだろう。

キョウヨウとキョウイクはどちらかだけで成立するものでもなさそうな気がしてきた。

人生を迷いなく過ごすためのキョウヨウ
人生を楽しく過ごすためのキョウイク

ちょっと意識して生きてみよう。まだまだ発見がありそうなので。

私にとってのキョウヨウは「なんでもいいから書くこと」な感じがする。キョウイクはこのnoteだったりして。。。

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