病気の自己責任論

ウイルス感染が発覚したことで、「自分が周りに迷惑をかけた」と自らを責め、自死に至ったケースがあるとニュースで見た。

「ウイルス感染は誰も悪くありません。自分を責めないでください」とテレビの人が言っていた。

その言葉はとても意味をなさないものだったし、力を持たない言葉だった。

その場を取り繕うためだけに発された言葉のように感じた。

少なくとも私にはそう伝わった。

ウイルスに感染した自分を責めるのはなぜか?

他の多くの事象のように、その理由は1つに限定することは難しい。

けれど、連日のように「感染者数が減らない」ことを問題視、「感染者数が増えている」ことを問題視。

その様を垂れ流し、世論のようなものを形成しているのはメディアじゃないか?

そのメディアが「自分を責めないで」と言う。

いったいどうしたいと言うのだ?

人類が手にした病気に対する成功体験が、今の様相を生んでいると思う。

病気や怪我の自己責任論はどこから始まったのか、自分なりに考えてみた。

それは医学の発展を基礎付けた研究に他ならないと思った。

「〇〇のグループに当てはまる人は、そうでない人と比べてX%の割合で◇◇の発症のリスクが高まる。」

「▲▲は◎◎の発症を予防する効果がある。」

みたいな情報が健康「バラエティー」番組で放送される。

タブロイド誌で特集される。

チープに流布された一見専門的な情報は「Aという病気は、ある行動をとっていれば予防できる」みたいな印象を植え付けたのではないか?

つまり、「ある行動を取らないからAという病気になった」と読み違える人を量産したのではないか?

その結果、Aという病気になった人に向かって「あれを食べなかったから」とか「あれをやっていたから」とか「あれをやらなかったから」みたいな視線の向け方を始めてしまう人が出てきたのだろう。

そこから「病気の自己責任論」が生まれたのではないかと思う。

生活習慣病の類のように、生活習慣を改めないことで悪化する病気はある。

しかし、はっきり言って予防の分野は効果が不透明な世界なのだ。

ある個体(人)において、予防した場合と予防しなかった場合を同時期に比べることができないから。

何か起きた事象に対して、予防したせいだ、とか、予防しなかったせいだ、とか言えないのだ。

だから、確率論の中でしか言えない。

なのに、確定した話のように自己責任論につなげてしまうのは、何かあるいは誰かのミスリードだし、ミスリードされた側の問題でもある。

こと現代騒がれているウイルス感染症に関しては、感染するかしないかの決定的な境界線はわからない。

マスクをしていたら感染しないとか、ワクチン打ったら感染しないとか、空気市場気があれば大丈夫とか、消毒液で至る所を消毒すれば問題ないとか、わからないのだ。

わかっていないことをメディアは騒ぎすぎなのだろう。

その騒ぎを見て感化されている一部の人もいる。

誤解している人もたくさんいる。

わからないのだから、わからない、にしておけばいいのではないか?

わかりようもない人々が騒いでもどうにもならないでしょう?

わかろうとする人々の知性によって徐々にわかってくるだろうから。

ほとんどの病気は自己責任論に当てはまるかどうかわからない。

最大限の注意を払っていても発症する人はいる。

その病気に対して「自分がどのような意味づけを行うか」は重要だけども、「他人を気にして自分を責める」ことは何の意味も持たない。

一日中座っている生活とか、タバコや酒にまみれた生活とか、麻薬に手を出すとか、そういうのは自己責任だと思いますけどね。

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