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【短編】最期のワルツ
明日、死んでしまおう。
そう決意すると、私の頭はなんだか妙にすっきりして、いつも見る通学路すら美しく活きゝと見えてくる思いだった。
道を歩いている人が、血液と内臓をうごめかせる生き物であるという事。風に揺れる草が、一つ一つの生きている細胞で造られているという事。空気が動いている事。日差しが暖かいこと。
そんなことがいちいち新鮮に感じられる。私はなんだか倖せな気持ちだった。
「おはよう」
「あ、おはよう」
いつも見る友人の姿も、今日が見収めになると思うと、愛おしくすら見えてくる。私はいつもより余計に明るく、彼女に挨拶の言葉を返した。
「元気だね」
「そう?」
彼女の体内は動いている。しかし私はもうすぐ止まるのだ。そう思うと、彼女にこれからも頑張ってね等と言い残しておきたくなる。その場面を想像して、私は心の中だけでそっと微笑んでいた。
学校のチャイムが鳴る。
じゃあね、と言い残して教室の前で彼女と別れる。
私はこの世のお別れに、珍しくまともにホームルームに出席して、教師を驚かせた。
教師は、私が久々に見せる意欲的な態度に、貌を綻ばせている。
おめでたい人。私は、また心の中だけで笑みを造った。
私が死んでしまおうと思ったのは、別に大きな理由があるからではない。
現実は疲れる。だから死んでしまおう。其れだけが、理由と呼べる理由だったのかもしれない。
だから遺書も用意していなかったし、やり残したことも無かった。
私は極めて前向きに、踊るような足取りで死に急いでいたのだった。
全ての授業に出席し、お昼休みのチャイムが鳴ると同時に、私はいつもどおり鞄を掴んで教室を出て居場所を探しに彷徨しはじめた。
私には教室でご飯を食べる習慣は無い。
教室には独りで居ることを赦さない雰囲気がある。特に女子の世界ではそうだ。殊更お弁当の時間になると独りで居ることは不自然で、無理に声を掛けてくる誰かと机をくっつけて食事を共にする事を余儀なくされる。そんな行事から逃げるために、私は鞄ごと教室を避難し、今日の様に天気が良い日などそのまま散歩に行ってしまう。
今日はどこにしようか。
暫くさまよった後、私は最上階の音楽室に辿り着いた。幸い誰も居ない。私は今日のお昼をここで過ごすことに決めた。
音楽室の中には、譜面台が林をつくり、同じ数だけの椅子と、グランドピアノが一台、義務の様に置いてある。このピアノは生徒も使用厳禁ではなく、好きな時に弾かくことが出来た。私も何度か弾いたことがある。
最期に、弾いていこうか。
それは良い思いつきの様に思えた。私は鞄を適当な椅子に乗せ、黒光りするピアノの前に座った。
蓋を開け、白と黒の鍵盤を触ると、ひんやりとして気持ち良かった。鍵盤の重みが、とても甘美な質感に思えてくる。こんな気分の時は、葬送行進曲なんて詰まらなすぎる。鍵盤の上に置かれた指は、もっと軽快で物悲しい曲を奏で始めた。
この音色とも、今日でお別れ。
音と共に、魂が高鳴っていくのを感じた。空に近い魂が、更に上に昇っていくような感覚。
「…✱✱さん?」
昇天が、破られた。
いつの間にか、黒いピアノの向こうに彼女が立っていた。
「…やあ」
「ご飯は?」
「あとで食べるよ」
「授業サボって?」
「…」
彼女は私の問題行動についてよく知っている。私は黙って笑う他なかった。
「何弾いてたの?」
「なにか弾いて欲しい?」
成り行きで、私は質問した。彼女は黒い鏡面に腕を置きながら云った。
「一番得意なので良いよ」
「そう?」
彼女が居ようが居まいが関係ない。私は弾きたい曲を、弾きたいように弾き始めた。
重低音が強調するワルツ。哀しいような、激しいような音階。
没頭していたわけではない。彼女の存在は、私を現実逃避から妨げる。
それでも不思議と不快感は無かった。
「✱✱さんが弾くピアノってなんだか好きだわ」
突然に、彼女が云った。
私はびっくりして、思わず音階を間違えそうになった。
彼女は黒い蓋に視線を落としながら、独り言の様にもう一度云う。
「なんで貴方が弾くと良い曲に聴こえるんだろうね」
「…」
私は笑っただけで、答えなかった。弾きながらしゃべるという芸当に自信が持てなかったからだが、そうでなくても、私には選ぶべき言葉を見つけられなかったかもしれない。
やがてチャイムが鳴って、彼女は教室に帰っていった。
私は予定通り、鞄を持って早々に校舎を抜け出した。
歩きながら、彼女の言葉が頭の中に張り付いて離れなかった。
私は、密かに狂喜している自分の心に気が付いていた。
上手いと云われた事はあったが、弾くその音が好きだと、そう云ってくれた人は殆どいなかった。上手だと云われる事も勿論嬉しかったが、私より上手な人は他にも沢山居るし、自分が上手いなどと思ったことは無かったのだ。
それなのに、彼女の言葉は嬉しかった。
不思議な浮遊感に戸惑いながら私は、自分が最近、"嬉しい"という感覚すら忘れてしまっていたことを、今更の様に自覚する。
恥じらいも遠慮も無く、内側から湧き上がる気持ちを味わっている自分に気が付いたとき、私は既に、死が身体から消えてしまっている事に気が付いたのだった。
2006/03/06
20220719一部校正
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