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Art Tatum、Lennie Tristanoについての私見

アート・テイタムについて書かれた批評では、この人にたいしネガティブな意見というのを殆ど見ない。とにかく畏敬の念で語られ、称賛され、かつされ続けてきた。筆者も同感だった。

いま、特に、97年に発売された二枚組CD「THE COMPLETE CAPITOL RECORDINGS OF ART TATUM」を聴くときがある。全二十九曲。うち後半八曲のトリオ(Everett Barksdale, Slam Stewart)を除いて、全てソロである。吹き込みが49年なので、この人にとっては後期になる。

テイタムの凄さについて、かれの純粋な技巧面をわたしはとてもうんぬんできないが、つねに感得してきたのは「デカダンスが全くない」事だ。この性質は、ジャズという音楽のばあい、結構注目したい要素だ。バド・パウエルには勿論ある。というより、漲っている。その危機感がスリルになっているし、テイタムとはまるで質の違う表現性、テクニックをもって登場しテイタムに拮抗した。

テイタムは「完全」という言葉が相応しいのだろう。タイムもタッチも全く乱れない。そしてあの信じられないような速度…。

即興に立ち向かう人々が避けがたいようにして併せ持っているところのスリル、あの崩壊や破綻しそうなところが一切ない。体調がもう優れなかった最晩年でもこの姿勢は全く変化していない。理路整然としてい、かつ超然としたピアニズム。ひとつひとつの音の異常な明晰さ。気楽に聴けないわけだ。
(佐藤秀樹さんもそういった感じの指摘をされていた。「ジャズ・ピアノ決定盤 70人の個性派ピアニスト」(音楽之友社) 20頁)


レニー・トリスターノが45年頃シカゴで残していた伝説的なピアノ・ソロの録音(四曲。Keynote)がある。

私は、トリスターノを知った当初は考えなかったのだが、この人は、テイタムをとても意識していた。テクの質が非常にテイタム的なのだ。と云うよりも、テイタムに“対抗意識”を持つ事ができるくらい、トリスターノも恵まれた(天賦の)テクニックやセンスを有していた。テクも日々の修練、そして努力というかもしれないが、幾ら努力したってテイタムやトリスターノのように誰も弾けないだろう。

二人とも「盲目」だった。目の不自由な人々が、そうではない大半の人々に不可能なまでのピアノ演奏技巧を獲得している。どうしてだろう。興味深いところがある。

これらは、ひと握りの、えらばれた人々の芸術である。