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【読書】鈴木宏昭『私たちはどう学んでいるのか:創発から見る認知の変化』【基礎教養部】

本記事は「ジェイラボ 基礎教養部」の活動の一環です。
簡潔な書評(800字書評)は以下のリンクからご覧ください。


本書は「学び」について認知科学の知見を交えながら検討していく入門書であるが、以前にもそうした本を紹介している:

この今井氏による著作(以下『学びとは何か』)では「スキーマ」という概念をキーワードとして学習のプロセスを説明している。その議論から学べることも多々あるのだが、今見直してみると、いかんせんこの概念だけでは多様な認知的変化(発達やひらめきなど)を統一的に捉えるには不十分なところがあるようで、説明が雑多で全体像を読み取ることが難しいように感じられた。

一方で、表題にある鈴木氏の著作(以下『私たちはどう学んでいるのか』)では「創発」という観点からそうした変化について一貫した説明がなされており、『学びとは何か』でモヤモヤしていた点がすっきりと解消された感覚があった。どちらも良い書籍であると思うが、出版年も踏まえると後者の方をおすすめしたくなった次第である。

議論の詳細は実際に本書を紐解いてもらうとして、ここでは上述の2冊で扱われている「知識」の捉え方について触れておきたい。両者は知識の特徴づけとして「知識は場面応答性がある(それが必要な場面で適切に使用できる)」ことを採用している点で共通しているが、『私たちはどう学んでいるのか』ではもう一歩踏み込んだ議論をしている。それを端的に表したのが

  • 知識はモノではなくコトとして捉えられなければならない

という主張である。

知識は言語によって伝えることができる、というのが一般的な認識であると思う。しかし──認知科学の知見を参照するまでもなく、よくよく考えてみればわかるように──言語によって伝わるのは「知識」そのものではなく、身体から離れた「情報」である。情報が記憶されれば頭の中にある「認知的リソース」の一部となるが、それはあくまで「リソース(材料)」であり、それ自体として知識となるわけではない。

本書の中で述べられているように、知識は記憶をはじめとした認知的リソースだけでは完結せず、環境が提供するリソースがうまく組み合わさることで初めて知識が「創発」される(=個々の要素の性質からは説明できない特異なシステムとしての「知識」が生み出される)。「使える知識」の場面応答性はこうした観点から説明がつくのである。しかし、知識を「モノ」として考えると、各々の状況についてどのようにそれを適用するのかという情報を知識は持ち合わせていることになるが、そうした状況(文脈)は無数にあるために、場面応答性の問題を説明することが難しくなってしまう。

上記のような知識の創発の過程は無意識に行われていることが多い。このプロセスは言語というメディアには乗せられないものであり、それが教育をはじめとした知識の伝達(本書の議論から分かるようにこれは基本的には不可能なのだが)を必要とされる場面で困難を生んでいるのであろう(ちなみに『私たちはどう学んでいるのか』の第6章では、認知的変化に関するこれまでの議論を踏まえた上で、教育に関して著者によるちょっとした提言がまとめられている)。そうした言語の限界や教育についての示唆を得られる点でも、本書の内容は興味深いと感じられた。

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