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【読書】学習観を見直す──今井むつみ『学びとは何か──〈探究人〉になるために』【基礎教養部】

本記事は「ジェイラボ 基礎教養部」の活動の一環です。
簡潔な書評(800字書評)は以下のリンクからご覧ください。


最近、学びのプロセスとはどのようなものなのか、ということについて考えることが多くなった。それはおそらく、個別指導で数学やら物理やらを教えることになったという環境の変化が要因としては大きいだろう。つまりは、「学び」というものが自分の中だけで閉じたものではなくなったのだ。もちろん、今までも大学などで他人と話し合う中で学んでいくということもあったわけだが、それは基本的に同年代の、自分と同程度の思考体験を積んだ人たちの中で閉じたものである。ところが、限られた知識や思考体験しか持たない中高校生の年代を相手にすると、自分が「当たり前」と思っていたことが彼らにとっては当たり前ではなかったりするために、ある分野について自分が持っている知識や、ひいては「学び」そのものについてのメタ的な認識を相対化せざるを得なくなってくるのである。

本書はおそらく、ある程度の知的蓄積を有する人から見れば、学習のプロセスについての「当たり前」を言語化しているに過ぎないものである。しかしながら、その大前提を共有しない人に対してその内容を伝えるとなったとき、「当たり前」を意識しているかどうか、すなわち、知識はどのような仕組みに基づいて獲得されていくのかということに対する理解の有無は、非常に重要になってくるはずである。そのような「当たり前」を、本書では「スキーマ」という言葉を用いて説明している。

スキーマとは、誤解を恐れずに言うならば、いわば思い込み(あるいは偏見)である。この「思い込み」を一切無くすことは不可能だ。なぜなら、人間は生の情報をそのまま取り込むということはできない(極めて特異な場合を除いて、人間はそのようにできている)からである。例えば、何の準備もなく、千円札の表裏の絵柄を鮮明に思い浮かべ、それを書き出すことができる人はほとんどいないであろう。しかしそれができなくても全く問題はない。「それ」が千円札であるかどうかは、詳細な絵柄に注目せずとも「見れば」わかる。すなわち、千円札の詳細な絵柄というものは、少なくとも日常生活を営むにあたっては我々にとって「必要のない情報」である(と、私たちは無意識のうちに「思い込んでいる」。そして実際、日常生活の文脈においてそれは「正しい思い込み」である)。このように、我々は無意識に情報を取捨選択をしているわけであるが、そのためのフィルター、処理装置となるのがスキーマなのだ。

この「スキーマ」という語を用いれば、学びとは「スキーマを形成し、それをより精緻なものに発展させていく過程」と表現することができる。字面はともかく、このことを「身体的な感覚」として実感できる人は、相当に「学び」を深めている者であると言って良いと思う。もちろん、ここで理解できなくとも、本書を紐解けば多くの具体的な記述がある(筆者は発達心理学や言語心理学の研究者なので、赤ちゃんや子供がどのように言語や科学的知識などを獲得していくか、という観点から説明したものが多い)ので、詳細はそちらに譲りたい。ここでは、私が個人的に思い浮かべた(と同時に、受験生などをはじめとする学習者にとって有用かもしれない)例を1つ紹介しよう。大学入試数学における「ヒューリスティクスを作る」という方法論である。それが実際にどのようなものであるかは、以下の記事を参考にされたい。

ところで、これは数学に限らぬ話ではあるが、学習の初期段階では、たとえ誤っていたり不完全なものであったとしても、とりあえずは人間が持つ素朴な認知的システムを反映させながら、その分野についての大体のスキーマ(知識のシステム)を作ってしまう。そうしなければ、効率的に知識を得て、その分野の全体像を把握することが難しくなるからだ。たとえば、「自然数」という概念を把握し運用するのに、最初から自然数の公理まで踏み込むことはまずない。「1とか2とか3とか」という素朴な認識を反映させつつ、「整数」や「有理数」などの類似の概念との差異を考えながら、「自然数」という言葉の意味内容を大雑把に把握する。このようにして概念同士を相互に関連させながら、その分野についてのスキーマを作り上げていく。

しかし、スキーマは効率的な学びにおいて必要不可欠ではあるものの、究極的には「思い込み」に過ぎず、誤っている(不完全である)こともある。そのような無意識下で用いられている未熟なスキーマを意識的に修正する作業が、ヒューリスティクスを作るという戦略である。あるいは、既存のスキーマを用いて解決できないような問題に出会った時に、思考を意識的な「マニュアル操作」に切り替え、解決の確率を上げるような、そういったシステムを作る作業と言っても良いかもしれない(おそらく、どちらも「ヒューリスティクス」として括られていると思う)。

注意しておきたいことは、他人が作ったヒューリスティクスはそのまま自分に使えるわけではないという点である。そもそも、自分の中のスキーマに修正すべき点があったとして、他人も同様にその問題点を共有しているとは限らないし、その逆も然りである。また、ヒューリスティクスもスキーマの一種であるが、そもそもスキーマは断片的な知識ではなく生きた知識の体系である。すなわち、ヒューリスティクスにある各項目は「それが適用できるような状況の知識(制約条件)」と共にある。『学びとは何か』の中で、今井氏は「スキーマは自分で発見するもの」と述べているが、それはヒューリスティクスについても全く同様である。

もちろん、ヒューリスティクスはあくまで数学の学習プロセスを効率化するための方法論であって、本来スキーマという概念は学習全般に応用できるものである。このような学習に関する認知科学的な知見に触れてみたいと思う方は、本書を紐解いてみると良いだろう。個別の内容や構成に関して手放しに絶賛できるわけではないが、自分が持っている学習観を認知科学の視点から見直してみるには良い題材である。

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