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【中編】選択の自由という呪縛:自由の牢獄(安冨歩『生きるための経済学──〈選択の自由〉からの脱却』)【基礎教養部】



本記事の下敷きとなっている本の簡潔な推薦文(800字書評)を以下のサイトで公開しています。是非ご一読ください。


選択の自由という呪縛

エリート不幸論の派生としての「東大<医学部」論

前回の記事で、「エリート大卒不幸論」の実質的な内容について述べた。それは、東大をはじめとする難関大を出ればたくさんの優良な「選択肢」を取れると思っていたのに、実際には必ずしもそうとは限らないし、むしろエリートの肩書きに束縛されて身動きが取れなくなってしまい、「逃げ出したいのに権力にしがみつかざるを得ない」という自己欺瞞に端を発する苦痛が大きくなる(だから不幸なのだ)ということである。誰もが知る有名大学を出て、にも関わらず大してやりたいこともなく利己心と虚栄心からエリート街道を乗ることを「選択」した者は、「〇〇大卒のくせに」というハラスメントを受けることを恐れて出世競争に邁進するか、それに興味がない場合は、待ち受けるさらなる恐怖──ドロップアウトの恐怖──から、多少のハラスメント的苦痛は仕方ないと割り切ってレールにしがみつき続けることになる。プロスペクト理論でモデル化されるような非合理性を持つ現実の人間にとって、外面や名誉、高待遇を捨ててでも自分の感覚に従う、という勇気ある選択肢をとれる人は少数なのだ。だからこそエリートは失敗が許されないし、失敗すればその時点でエリートではないのである。

さて、この記事ではエリート論の派生としての東大<医学部論と、それらが共通して孕む盲点について触れてみたい。というのも、なぜか知らないが東大と医学部は比較されがちで、「エリート(≒東大卒)不幸論」の支持者はこのことを取り上げることが多く、さらにその結論はほぼ満場一致で「医学部の勝ち」なのである。その根拠としては、年収や地位などの面で普通の東大卒が医師に劣後する(らしい)ということも大きいが、それ以上に、見かけによらない「選択肢の多さ」が医師の最も特権的な性質として語られることが多いようだ。

曰く、先ほども述べたように、東大(エリートコース)は選択肢が多いように見せかけて、実際には「エリート」特有の呪縛がある。一方で、医学部は将来的な選択肢が医師という職業に限定されるため選択肢がないように思われるが、実際にはその中ではかなり融通がきく、つまり「選択の自由」があるという論理である。上の記事でも、こういった自由概念を志向する内容がかなりの比重を占めていると感じられる。一応補足だが、ここでは年収などの社会的ステータスの希求も──お金があるということはそれだけ社会から「選択権」が配られているということを意味するわけだから──「選択の自由」を欲望するものであると解釈している。

今しがた少しだけ「東大<医学部論」を紹介したわけだが、これだけでも、『生きるための経済学』(以下「本書」と呼ぶ)における根本の問題意識である「選択の自由」に縛られているという盲点が見えてくるだろう。東大は先の進路に関してそのイメージよりも不確実性が大きいのに対し、医学部入学はそこからもたらされる結果に比較的予測性があり、「最低ライン」(もちろんこれはエリート基準であり、一般のそれよりも遥かに高いものである)を確保しやすいとされる。しかし、ある程度の線形性があるからといって、東大<医学部論も「選択の自由」概念に囚われていることには変わりがない。

ここで、「選択の自由」に関する本質的問題点をより深掘りするために、本書でも取り上げられているエンデの短編『自由の牢獄』を紹介する。『自由の牢獄』の内容(特に宗教関連)を詳述すると長くなってしまうので、かいつまんだものになってしまうことはご了承願いたい。

自由の牢獄

『自由の牢獄』の主人公はインシアッラーという名の盲目の乞食である。主人公は若い頃(まだ盲目の乞食となる前)に、「人間には自由な意思がある」と信じ込むに至り、イスラームの魔王であるイブリースに惑わされ、神の懲らしめを受けることになる。

主人公は踊り子に化けたイブリースに誘われ、側面に111もの全く同一の扉がある不思議な円筒形の空間に閉じ込められる。外に出るためにはどれかの扉を選ばなければならないが、どの扉を選ぶかは全くの「自由」であり、どれかを選べばそのほかの扉は全て閉ざされてしまう。扉を開けた結果は開けてみるまでわからない。つまり、扉を開ける自由は主人公にあり、同時に開けた責任は主人公が負わなければならない。

主人公は全く同質な扉を前にして選ぶことができない。最初は適当に開けようかと思ったがそれもできず、時が経てば経つほど選べなくなる。そして、このような「選択の自由」が自分にとって全く意味をなさないものであると悟った主人公は、あらゆる行為が神によって決定されており、人間はそれに従うことが最上であるという結論に達する。そして気がつけば、盲目の乞食となっていたのである。ちなみに、主人公の名前のインシアッラーは、「神の御意のままに」という意味になるそうだ。

一見して、主人公が置かれた状況は「選択の自由」とは程遠い、無理難題であると考える者が多いかもしれない。手がかりもないのに選ぶことを強要され、その責任を負えと言われても理不尽だと感じるはずだ。この裏には、現実の選択では何か手がかりがあり、それによって正しく選べば結果も想定通りになるという期待感がある。しかし、そのような主人公の嘆きに対して、イブリースは次のように答える。

それ(注:扉がどこに通じているか、つまり扉を開けた時の結果)を知っていたことが一度でもあるのか? 生まれてからこれまでというもの、おまえはあれやこれやと決めたときに、理由があると信じていた。しかし、真実のところ、おまえが期待することが本当に起こるかどうかは、一度たりとも予見できなかったのだ。おまえの理由というのは夢か妄想にすぎなかった。あたかも、これらの扉に絵が描かれていて、それがまやかしの指標としておまえをだますようなものだ。人間は盲目だ。人間がなすことは、暗闇の中へとなすのだ。

エンデ『自由の牢獄』

これは先ほどの文脈で言えば、ある選択肢を選んだ時の結果の予測性(線形性)の話であると解釈できる。現実には、側から見て合理的な「選択」したからといってそれが完璧に予想通りにいくことは稀で、そういった線形性が保たれる世界は極めて限られている(注1)。さらに厄介なことは、経験的あるいは統計的に線形性がある程度成り立つからといって、「今この自分自身」という具体的な個人にそれが当てはまるとは限らないということである。「統計」で生きるとは「その他大勢」に自分を埋没させることであり、それはフロムの言うところの「社会的自我=プロテスタント的自我」あるいはアダム・スミスの「見えざる手」に盲目的に従うということだ。端的に言えば、「今この自分」という固有の生を「生きて」いない。これが私の(そしておそらく本書の著者の)問題意識の根幹である。

その意味では、医学部最強説を唱えるエリート不幸論者と、『自由の牢獄』で盲目の乞食となった主人公とは本質的には変わらない。この主人公が従うのがイスラームの神であるアッラーであるとすれば、エリート不幸論者を始めとした合理主義者が従うのは「選択の自由」教であり、その唯一神は「選択の自由」を前提とした合理性を扱う経済学である。一般には前者が完全な不自由、後者は完全な自由(これは言うまでもなく選択の自由だ)を求めているという点で全く違うものと捉えられがちであるが、自分自身の固有性(固有生)を殺しているという意味で両者に違いはない。異なるのはどのような「神」を信仰しているかということだけである。

注1:進学校からの大学受験はその極めて限られた例外の一つかもしれない。「この高校でこのくらいの位置にいればこれくらいの大学に行ける」といったときの予測精度は実際極めて高いと思う。逆に、そういった世界に過剰適合してしまうと、一定割合で現実との折り合いがつかなくなってしまうのだろう。

(余談だが、エンデの『自由の牢獄』において選択の自由を突きつけるのは「イブリース」という名の魔王だが、先ほど引用させていただいた記事の方も同じ名前であった。偶然の一致だろうか。)

中編のまとめ

これまで『生きるための経済学』の議論を下敷きとして、「選択の自由」に基づいた「エリート不幸論」や、その派生としての「東大<医学部論」を分析してきた。本記事をこれらに対する批判と見る向きもあるだろうし、実際にそのような部分はあると思う。

しかし実を言うと、自分自身もこの「選択の自由」に囚われている部分が少なからずあるかもしれないと思っている。なぜなら自分も本書の著者(注2)と同様に「エリート大」出身であり、大学受験という無意味極まりない競争に都合2年間身を置いていたからである。次の記事では、少し脱線してダサい自分語りをさせていただいて、結論として「ではどうすればよいのか?」という疑問に答える形で議論を結びたいと思う。

注2:本書の著者自身も「選択の自由」や「社会的自我」に囚われていたことを認めている。むしろ、それに囚われたことで研究に没入し、成果を追い求めるようになったということを本書の中で語っている。高学力者にとって尊敬の対象である研究職や大学の教授職になったとしても、それに至るまでの根源的な苦しみは他のエリート街道のそれと変わらないのかもしれない。


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