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【前編】選択の自由という呪縛:エリート不幸論から始めて(安冨歩『生きるための経済学──〈選択の自由〉からの脱却』)【基礎教養部】


本記事の下敷きとなっている本の簡潔な推薦文(800字書評)を以下のサイトで公開しています。是非ご一読ください。


東大卒不幸論?

最近、「東大卒不幸論」とも言うべき主張を目にする機会が増えた気がする。あるいはもっと裾野を広げて「高学歴なのに〜」の類のあれやこれや、と言ってもいいかもしれない。〜には大体「仕事ができない」とか「低収入」などが入り、しばしば発達障害などの社会生活を営む上で不利な気質と関連づけて論じられている。実際、東大卒の人生を考える会さんの以下の記事をはじめとして、noteに多くの関連記事が投下されていることからも、この話題に関する関心の高まりが伺えるのではないか。

かくいう自分も──私は東大出身ではないが世間的には間違いなくエリート大所属のため──かなり複雑な感情を抱きながらこういった論をウォッチしていた。社会の様相が目まぐるしく変わり、求められるものが多くなっている時代特有の問題なのだろうかとぼんやりと思っていたが、今回取り上げる本(さっき気づいたがもう15年以上前の書籍だ)にも全く同じようなことが書いてあったたため、エリートの悩みというのは時代とかそんなものでは変わらない構造的なものであるらしい。

一応予め断っておくが、本書で論じられるエリート不幸論は、自己欺瞞が生み出す経済的帰結を論じるための具体例にすぎず、本質では全くない。ただ、2008年という年代に出版された著作の議論の普遍性、それを感じてもらうためのフックとしての役割は果たせそうである。そこで、特になんらかの形で挫折したエリートにとっては耳の痛くなるような引用からはじめて、note上で支持を得ている「東大卒不幸論」やそこから派生する議論の本質的問題点(盲点)と、それを踏まえた上で進むべき「道」について述べてみたい。ただし、この記事の目的はあくまで自分の感じたことを散文的に書くことなので、例えば市場経済理論とプロテスタント神学の親和性など、本書のいくつかの刺激的な論点について深入りすることはできないかもしれない。興味を持った読者は実際に本書を紐解いていただければ幸いである。

さて、本書の著者である安冨歩氏は、大学で教授職につくまでは、京都大学経済学部を卒業したのちメガバンク就職という、側から見れば超がつくほどのエリートコースに乗った人物である。その経験をもとに次のような議論を展開している(引用が長くなるがご容赦いただきたい)。

(前略)大学を卒業して二〇年以上経過した最近になってようやく、「選択肢が広がる」というのが、大きなまやかしであることに気がついた。
 なるほど、エリート大学を卒業すれば、立派な会社にエリートとして入社できるので、エリート大学に入らなければ得られなかった選択権が増えたように見える。しかし冷静に考えれば、その肩書きは同時に足枷にもなっている。というのも、そういう肩書きを得てしまうと、その肩書きが通用しないところに踏み込むのが、怖くなるのである。実際、受験勉強などで人生を無駄にしていたのでは、肩書きなしで勝負せねばならない世界を生きるのは難しくなっている。

『生きるための経済学──〈選択の自由〉からの脱却』p.192

もちろん、エリート大卒あるいはエリートサラリーマンという肩書きが通用しないところに行く、という行動ができる人もいる。著者は研究職をやめてギター職人になった京大の知人の例を挙げているし、自分もバイト先の先輩であった人で「大手教育企業→3ヶ月で辞職→私立高校の非常勤講師」という経歴を辿った方がいる(余談だが、この方からは最近飲みがてら詳しい話を伺ったところで、気質的に自分と極めて近しい人だなと勝手に共感していた)。また、自分も懇意にしていただいている社会人の方から「地元のエリート大を出て東京でエリサラ→地元で農業 という経路を辿った人が知り合いにいる」という話も聞いたことがある。ただ、こうした勇気がある人はやはり少数であろう。ここからさらに耳の痛い話が続く。

こういった勇気は、しかし、親に騙されて受験勉強を大人しくしてしまうような子どもにはないのが普通である。かくして、自分自身を失い、自分が何をやりたいのかわからなくなった子どもは、よい学校を出て見かけ上の「選択の自由」を拡大しても、実際にはそれを行使することができない。そういう彼らには、エリート大学出専用に用意された「エリートコース」という、狭く虚飾に満ちたルートのみが与えられる。このコースに乗った人生は、見た目の華々しさに反して、中身は空虚である。世のなかというものは、上に行けば上に行くほど、制約が大きい。何か少しでもへマをすれば「エリート大学出のくせに」と言われる。もちろん、エリートたちは、そのようなことを言われるのだけは我慢できないので、全知全能を傾けて仕事に精を出し、「さすが」と言ってもらえるように頑張る。こうなるとエリート看板の奴隷である。

『生きるための経済学──〈選択の自由〉からの脱却』p.193

これは先ほど引用した記事でいう「東大卒はその肩書にふさわしい進路選択を要求される」とか「勤務地が都心に限定され、可処分所得や時間が増えない」とかに当たる制約であろう。ゆったりと仕事をするエリート大卒の人もたくさんいるだろうが、そうは言っても職場で「無能」扱いされることには耐えられないはずだ。おそらく「そこそこ上手くやれている」程度になるようには適合のための努力をするだろう。そして、「上手くやれない」エリートに待ち構えているのは残酷な世界である。

その上、勇気がないためにこのエリートコースに乗ってしまう人は、このコースから外れると奈落の底に転がり落ちそうな気がして、ますますそこにしがみついてしまう。そうすると、たとえば何か嫌なことをされたときに、それを「嫌だ」と表明することで上司や同僚と軋轢を起こすと、それがもとでそのコースから落ちてしまうような気がして、自分を抑え込んでしまう。エリートコースでは、誰も彼もがこういった恐怖心を抱いており、自分より強いものには媚びへつらい、弱いものは支配する、という空気があたりまえになっている。それが強烈なハラスメント的世界を作り出してしまう。

『生きるための経済学──〈選択の自由〉からの脱却』p.193

この主張は結構極端な気がするが、それでも官僚をはじめとする「花形」的な進路にはこういったハラスメント的側面があるのではないか。少なくとも、業務が多すぎるとかつまらないとか上司が気に入らないとか、そういった感覚を抱いたとしてもある程度は抑え込まなければならないのが実情だろう。ドロップアウトした瞬間に「エリート」ではなくなってしまうのだから、保身と自己欺瞞に走り、レールにしがみつくのは当然である。その上で「仕事ができない」「無能」などのレッテルを貼られることになれば、嫌でもハラスメントの嵐の中を進まざるを得ない、ということになる。

もちろん、私はエリートコースだけがひどいところであり、世間のそれ以外のところはひどくない、などということを言っているのではない。たとえば少なくとも、エリートコースは経済的に恵まれており、そういう苦労からは比較的自由になることができる。経済的苦労が並大抵のことではないことも、十分に承知している。私がここで指摘したいことは、エリートコースを生きることの苦痛は、それ以外の世界を生きる苦痛に比べて、けっして少ないわけではない、ということである。エリートコースに入ることで苦悩が軽減するわけではなく、ある面で減少したように見えても、別の面では増加しており、特に「欺瞞」という人間の本源的な苦痛の原因は大幅に増加する。しかも、そのようなコースに入る権利を獲得することは、それ以外の世界に入る権利を放棄することに等しく、けっして選択権が広がるわけではない。よい学校に行けば選択肢の拡大によってやりたいことができるようになる、という説は、根本的に間違っている。

『生きるための経済学──〈選択の自由〉からの脱却』p.195

「東大卒不幸論」は色々な要因が挙げられているが、本質的には「選択肢が増えると思ってたけど、実際はそんなことなかったし、むしろエリートの肩書きに束縛されている」ことに集約されるのだろう。特に「やりたいことはないけどいい大学に入ったのだからそれ相応の道を歩みたい、そうでないと同級生たちと比べた時に恥ずかしくなる」といったマインドセットの人は、本書で言及されているようなエリートコースの自己欺瞞に陥る可能性が極めて高い。

中編に続く

次回の記事では、「東大卒不幸論」の派生としての「医学部最強論」と、これらの議論が共通して孕む本質的な問題点(盲点)について議論してみたい。

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