草矢

日記です

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最近の記事

9/18の日記

 小島信夫『抱擁家族』を読み始めた。なんだろう、(おそらく)夢とおもわれる描写があって、そのままぬるりと現実の描写へとつながってゆく部分があって、反対にこの小説はすべて夢の描写なのではないかと思って、いや夢か夢でないかを重要だとするのはそれが必要に応じてというだけであって、この小説ではそんなことはどうでもよく、ほんとうは誰にとってもどうでもよい(ことなのかもしれない)。とりあえず夢と現実という区切りがあるからこそ分けるが、それがなかったら結局同じことなのだ、とも言える。だから

    • 9/11本の感想

       鈴木康太さんの『霊園東通り南』がすきだ。タイトルがついている、一篇のわくぐみのなかに、六行で書かれた詩が、あまり脈絡なくいくつも綴じられてある。この脈絡のなさがいい。読んでいる僕にはわからない、作者だけの大切な時間があるのだろうな、と思う。同期されない抒情、がある。句集の構成なんかを思い出す。『恋』の「まりな」は朔太郎のエレナみたいなひとだろうか。『恋』の詩篇たちはなんとなく、スピッツっぽいと思った。  川端康成の『みずうみ』を読んでいる。川端康成はあまりすきじゃなかった

      • 萩原朔太郎と私小説

         佐伯一麦の小説を読みながら、萩原朔太郎の詩について考えていた。高校生の頃、佐伯一麦だけでなく私小説の作家の作品ばかり読み漁っていた。たぶん、その頃はだれでもそうなのかもしれないが、自分という存在が敵対するようにあったこと、書き手のいる次元がそのまま小説の次元と一致したりしなかったりするそのズレみたいなもの、に興味があったからだと思う。それでそのなかでもとくに思いいれのふかい佐伯一麦の『木の一族』を二年ぶりくらいに読み返してみると、やはりなにをみてもその向こうに私を想起してい

        • 8/14の日記

           アキアカネが何匹か、ときどきつがいとなりながら、飛んでいる空が、それら全体が、「わたし」なのではないか、とふと思ったのだ。わたしは、と書き始めながら、誰なのかわからなくなって、とりあえず窓の外を横ぎった鳥を、わたしと名づけた。すぐにいなくなった。書くことはひとりきりの行為だと思えない、むしろ書いているときしか、誰かでないときがない。この夏は何もいなかった。

        9/18の日記

          日本現代詩人会 詩投稿作品 第33期で『石となる』という作品が雪柳あうこさん選で入選してました。三月、タイのアユタヤの遺跡の近くのカフェで書いた、アユタヤ詩篇、です。どうぞ https://www.japan-poets-association.com/contribute/

          日本現代詩人会 詩投稿作品 第33期で『石となる』という作品が雪柳あうこさん選で入選してました。三月、タイのアユタヤの遺跡の近くのカフェで書いた、アユタヤ詩篇、です。どうぞ https://www.japan-poets-association.com/contribute/

          7/26の日記

          書く時に使う回路みたいなものがあって、しょっちゅう使っていなければそれは簡単に閉じてしまう、そしてそれをふたたび開けようとすると時間がかかる、とそのようなことを山下澄人がインタビューで言っていて、それを間に受けて素直に毎日書くことだけはやめないでいるが、書くことはやはり突き詰めていけば手の動き(とそれに付随するほかの身体の部分のうごき)にほかならなくて、それらのコンディションによって書いていて回路が使われる状態と書いてはいても回路が使われずただ書けてしまっている状態とがあると

          7/26の日記

          7/10の日記

          遠く波の光っているところがあって、そこだけが懐かしいのだった。そこからなにかべつの懐かしいわちゃわちゃした些細な事を思い出そうとはしただろうが、懐かしいのはほかならない今光っている波の遠さなのだから、今このときが懐かしくて、思い出しているなかのような今だった。波の光の遠さすら懐かしいのだから、砂の上のここに座っているぼくの体へ堆積していった時間を思い遣って、ぐるりとまわって過去のなかから今を思い出しているのだから、あの波のようにあの波が懐かしいのだった。記憶は現状あの波で、記

          7/10の日記

          7/1の日記

           貞久秀紀の詩は、読んだひとが自身の経験によってそれを置き換えながら読むということを否定している。つまり説明という部分が最初から一切含まれていない。その文を読むことによって、初めて体験されるという体験を求めている。だから読んでいるわたしはそこにわたしの経験を参照できない。まさに初体験なのだ。  そのような貞久の詩には「写生」ということが前提としてある。つまり貞久自身が体験したことがその詩なのであるが、その体験したことのように(再現するように)書くのではなくて、読むひとがその同

          7/1の日記

          6/26の日記

           しんだって、しなないのよ  と毎日つけているノートに最近かいた。  ひとりの人間(だけでなく狐も石や水も)がしんだりうまれたりするというそのことをひとつの断絶としないために、考える、ことを去年くらいからやっているのだと思いかえす。そのひとつの方法として詩があったりする。うまれたりしんだりするということは、個がひらいたりとじたりすることだ。そこにはわたしからの解放がある。しんだって、しなないし、うまれなくても、いきている、たとえそこにいるわたしが、わたしと呼べないかたちをして

          6/26の日記

          手づくり詩集をつくりました

          先日、岡山県玉野市のレジデンスイン荘内さん(instagram:@residence_in_shonai)でタイ在住の友人ら(@mojack_takeshi)(@libbyn.mbk48official)と展示会をしました。 その展示品として、ぼくは手づくりの詩集をつくってもっていきました。『剥片詩篇』(はくへんしへん)、これまで書いたものからとりあえず何編かあつめてまとめてみました。 展示会には平日の昼間にもかかわらず、広島から来てくださった方もいて、ありがとうございまし

          手づくり詩集をつくりました

          6/14の日記

           ヴァレリーの評論を読んでいる。詩は伝達のための形式ではない、読まれるということを少しも戦略せずに書くことができない「誠実でない」人間が詩人である、作品とは読者が行為する場である、などなど、誤読を前提として翻訳しながら読んでいる。その周辺で、ここ数日考えていたことを、本の内容とは関係ないが、メモしておく。 まず詩や日記といった形式を選んでいる以上、ほんとうに自分ひとりで書くことはできない。自分ひとりの力だけで書くとかならず詩や日記にはならない。どれだけ形式から逃れたものを書

          6/14の日記

          6/3の日記

           「ひとが心細く「私は」と名乗りほんとうに正直に何かを書きはじめるとき、ひとはその視野と言葉の組み立ての在り方を過剰に明らかにしてしまう。それゆえ、その詩が一見難解であるとしても、それは難解というより見え過ぎている、もしくは明らかであり過ぎて見えないと言った方がおそらく正確であるに違いない。」(岸田将幸「見ること、生きること」)  さ‐お‥を【さ青】〘 名詞 〙 ( 形動 ) ( 「さ」は接頭語。「お」は「あお(青)」の変化した語 ) 青いこと。また、白さがまさってうす青く

          6/3の日記

          日本現代詩人会詩投稿作品第32期にて、柴田草矢名義で拙作「ゆきおりて」が雪柳あうこさん選で入選しています。去年の九月頃書いたもので、詩にかぎれば高校生以来、約三年ぶりに書いたものです。真剣に、詩を取り戻そうとして書いたものです。 https://www.japan-poets-association.com/contribute/

          日本現代詩人会詩投稿作品第32期にて、柴田草矢名義で拙作「ゆきおりて」が雪柳あうこさん選で入選しています。去年の九月頃書いたもので、詩にかぎれば高校生以来、約三年ぶりに書いたものです。真剣に、詩を取り戻そうとして書いたものです。 https://www.japan-poets-association.com/contribute/

          4/26の日記

          ひとつの言葉をかくだけで.ひとつの言葉が出来上がってしまうのはなぜか? いまかかれつつあるこれらの言葉によって.わたしによってかかれつつあるこれらの言葉によって.変化してゆくことがさけられないわたし.なにかをつくることによって.どこかへ出来上がってしまっていくのはわたしの方であり.むしろその過程でしかない作品には本来方向性......つまり完成とか不完成とかはなくて.作品を仕上げてゆくにしたがって.出来上がっていったわたしによってうたれる終止符が.作品の完成という無意味を意味

          4/26の日記

          ゆめ/いしき/みる/うつつ

           意識の中で思い描いているひとやものがかならずしも夢にかたちをもって現れるとはかぎらないことは誰でも知っている。むしろその夜眠りにつくそのときまでずっと忘れていたようなひとや場所のほうが夢のなかに反映される場合が多い。こういうときわれわれはわれわれの意識の外でうごいていてどうしようもない存在の存在を感じる。しかしこれは意識が意識でない部分を統治しながら考えているだけで、実際は無意識のほとんどが流動しながら意識というものをうごかしている。  ものを見るというのは、視覚のなかにあ

          ゆめ/いしき/みる/うつつ

          春休み

           ひさしぶりに日記を書く。岡崎乾ニ郎「抽象の力」を広島の丸善で先週買って、少しずつ読んでいる。対象を眺めれば眺めるほど、各部の印象が強くなって、とらえていたはずの形が壊れはじめるというのは、手塚敦史の詩を読んで感じでいたことと通じている。「トンボ消息」にある「水をためる中の 物」というのは、細かな語句に注目すると、「中の」の部分が意味を破壊してしまって、矛盾が生じているように見えるが、読み飛ばしてしまうとほとんど「水をためる物」としかイメージできなくて、それがわたしたちが普段