書く時に使う回路みたいなものがあって、しょっちゅう使っていなければそれは簡単に閉じてしまう、そしてそれをふたたび開けようとすると時間がかかる、とそのようなことを山下澄人がインタビューで言っていて、それを間に受けて素直に毎日書くことだけはやめないでいるが、書くことはやはり突き詰めていけば手の動き(とそれに付随するほかの身体の部分のうごき)にほかならなくて、それらのコンディションによって書いていて回路が使われる状態と書いてはいても回路が使われずただ書けてしまっている状態とがあると
遠く波の光っているところがあって、そこだけが懐かしいのだった。そこからなにかべつの懐かしいわちゃわちゃした些細な事を思い出そうとはしただろうが、懐かしいのはほかならない今光っている波の遠さなのだから、今このときが懐かしくて、思い出しているなかのような今だった。波の光の遠さすら懐かしいのだから、砂の上のここに座っているぼくの体へ堆積していった時間を思い遣って、ぐるりとまわって過去のなかから今を思い出しているのだから、あの波のようにあの波が懐かしいのだった。記憶は現状あの波で、記
貞久秀紀の詩は、読んだひとが自身の経験によってそれを置き換えながら読むということを否定している。つまり説明という部分が最初から一切含まれていない。その文を読むことによって、初めて体験されるという体験を求めている。だから読んでいるわたしはそこにわたしの経験を参照できない。まさに初体験なのだ。 そのような貞久の詩には「写生」ということが前提としてある。つまり貞久自身が体験したことがその詩なのであるが、その体験したことのように(再現するように)書くのではなくて、読むひとがその同
しんだって、しなないのよ と毎日つけているノートに最近かいた。 ひとりの人間(だけでなく狐も石や水も)がしんだりうまれたりするというそのことをひとつの断絶としないために、考える、ことを去年くらいからやっているのだと思いかえす。そのひとつの方法として詩があったりする。うまれたりしんだりするということは、個がひらいたりとじたりすることだ。そこにはわたしからの解放がある。しんだって、しなないし、うまれなくても、いきている、たとえそこにいるわたしが、わたしと呼べないかたちをして
先日、岡山県玉野市のレジデンスイン荘内さん(instagram:@residence_in_shonai)でタイ在住の友人ら(@mojack_takeshi)(@libbyn.mbk48official)と展示会をしました。 その展示品として、ぼくは手づくりの詩集をつくってもっていきました。『剥片詩篇』(はくへんしへん)、これまで書いたものからとりあえず何編かあつめてまとめてみました。 展示会には平日の昼間にもかかわらず、広島から来てくださった方もいて、ありがとうございまし
ヴァレリーの評論を読んでいる。詩は伝達のための形式ではない、読まれるということを少しも戦略せずに書くことができない「誠実でない」人間が詩人である、作品とは読者が行為する場である、などなど、誤読を前提として翻訳しながら読んでいる。その周辺で、ここ数日考えていたことを、本の内容とは関係ないが、メモしておく。 まず詩や日記といった形式を選んでいる以上、ほんとうに自分ひとりで書くことはできない。自分ひとりの力だけで書くとかならず詩や日記にはならない。どれだけ形式から逃れたものを書
「ひとが心細く「私は」と名乗りほんとうに正直に何かを書きはじめるとき、ひとはその視野と言葉の組み立ての在り方を過剰に明らかにしてしまう。それゆえ、その詩が一見難解であるとしても、それは難解というより見え過ぎている、もしくは明らかであり過ぎて見えないと言った方がおそらく正確であるに違いない。」(岸田将幸「見ること、生きること」) さ‐お‥を【さ青】〘 名詞 〙 ( 形動 ) ( 「さ」は接頭語。「お」は「あお(青)」の変化した語 ) 青いこと。また、白さがまさってうす青く
日本現代詩人会詩投稿作品第32期にて、柴田草矢名義で拙作「ゆきおりて」が雪柳あうこさん選で入選しています。去年の九月頃書いたもので、詩にかぎれば高校生以来、約三年ぶりに書いたものです。真剣に、詩を取り戻そうとして書いたものです。 https://www.japan-poets-association.com/contribute/
ひとつの言葉をかくだけで.ひとつの言葉が出来上がってしまうのはなぜか? いまかかれつつあるこれらの言葉によって.わたしによってかかれつつあるこれらの言葉によって.変化してゆくことがさけられないわたし.なにかをつくることによって.どこかへ出来上がってしまっていくのはわたしの方であり.むしろその過程でしかない作品には本来方向性......つまり完成とか不完成とかはなくて.作品を仕上げてゆくにしたがって.出来上がっていったわたしによってうたれる終止符が.作品の完成という無意味を意味
意識の中で思い描いているひとやものがかならずしも夢にかたちをもって現れるとはかぎらないことは誰でも知っている。むしろその夜眠りにつくそのときまでずっと忘れていたようなひとや場所のほうが夢のなかに反映される場合が多い。こういうときわれわれはわれわれの意識の外でうごいていてどうしようもない存在の存在を感じる。しかしこれは意識が意識でない部分を統治しながら考えているだけで、実際は無意識のほとんどが流動しながら意識というものをうごかしている。 ものを見るというのは、視覚のなかにあ
ひさしぶりに日記を書く。岡崎乾ニ郎「抽象の力」を広島の丸善で先週買って、少しずつ読んでいる。対象を眺めれば眺めるほど、各部の印象が強くなって、とらえていたはずの形が壊れはじめるというのは、手塚敦史の詩を読んで感じでいたことと通じている。「トンボ消息」にある「水をためる中の 物」というのは、細かな語句に注目すると、「中の」の部分が意味を破壊してしまって、矛盾が生じているように見えるが、読み飛ばしてしまうとほとんど「水をためる物」としかイメージできなくて、それがわたしたちが普段
堀辰雄の随筆作品において、マルセルプルーストについて言及していて個人的に興味深かった箇所と、小説作品においてプルーストの文体の影響が顕著だと思われる箇所と、堀辰雄の研究書においてプルーストに言及している箇所を、書き写しました。細かい部分では本文と異なるところが多々あると思いますが、自分用に読み直せるように書き写したものなので、ご了承ください。参照した全集は『堀辰雄作品集 角川書店』です。 写真は信濃追分にある堀辰雄の書庫 「時間の見えざる実在、それを私は孤立させようと試み
作家耕治人は明治三十九年(1906年)、熊本県八代に生まれ、詩人として出発し、昭和十三年以降は小説をおもに書いた。 その作風は私小説で知られる。私小説とは日本独自の小説形式であり、その定義は諸論あり明確ではないが、一般的には、その小説の作者、その身内などが、本人または本人をモデルにした人物として、作中に登場する小説作品のことをさす。 (一人称でかかれる私小説の場合、その書き手と、作中の語り手は、同一と見てもいいほどに限りなく近いものでありながら、フィクションであるという
忘れてしまうこと、記憶から完全に忘却されてしまうこと、頭から身体からその記憶が一ミリものこらずに消えてしまうこと、は、ないと、僕は考える。もちろん、僕は脳科学の専門家ではないし、記憶にかんして専門に研究をつづけているというわけではない、が、それでも一人の人間として、過去はなくなっても、記憶はなくならない、なくなってはさみしすぎる、と、信じているしそうあってほしいと願っている。 毎度毎度同じ考え方というか視点で、申し訳ないというか自分でもうんざりしているのだけれど、やっぱり