7/26の日記

書く時に使う回路みたいなものがあって、しょっちゅう使っていなければそれは簡単に閉じてしまう、そしてそれをふたたび開けようとすると時間がかかる、とそのようなことを山下澄人がインタビューで言っていて、それを間に受けて素直に毎日書くことだけはやめないでいるが、書くことはやはり突き詰めていけば手の動き(とそれに付随するほかの身体の部分のうごき)にほかならなくて、それらのコンディションによって書いていて回路が使われる状態と書いてはいても回路が使われずただ書けてしまっている状態とがあると思う。書けてしまっている状態というのはつまりすでに書いたことからの単純連想でしか続き得なくて、例えだが、つまりということは、がきたら最後は、である、でかならずしめてしまうような、つまり言語のシステムの内側でしか書けないような状態。書くことによってそれらのシステムの外へ外へと飛びこえてゆくことの運動みたいなものを山下澄人は回路と呼んでいるのだろうが、かならずしもそれらはただ惰性的に書くことだけでは発動しないものだと、自分がつけているノートを見返して思っている。夏だから。身体がとても怠い。眠るとものすごく深いところに潜っていてそこから引きあげてきたのだから水のなかにいた疲れがそのまま残っている、みたいな眠りがここ数日ずっと続いていて。黒田三郎の『ひとりの女に』を読んだ。時代が違えばどれだけの酒やもろもろの薬物とともに制作がなされているかも違ってくる。コクトーは阿片なしに『阿片』が書けただろうか。なにかをつくるということが身体をもちいるものであるかぎり、身体の頑丈な人だけがやはり量や質の面においてよいものを仕上げるというのはもっともらしいことでありながら意外と気がついているひとが少ない気がする(夭折した芸術家という幻想からだろうか)。自分も宮崎駿のドキュメンタリーを見ていて初めてそう思った。身体をもちいないであるいは極めて希釈したかたち?で制作されるものもあるらしいけれど僕はそういうことには疎くて知らない。とにかくここが夏であるかぎりいつまでもだらしもないことを日記していくだけか。でもそれも日記だ。

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