ゆめ/いしき/みる/うつつ

 意識の中で思い描いているひとやものがかならずしも夢にかたちをもって現れるとはかぎらないことは誰でも知っている。むしろその夜眠りにつくそのときまでずっと忘れていたようなひとや場所のほうが夢のなかに反映される場合が多い。こういうときわれわれはわれわれの意識の外でうごいていてどうしようもない存在の存在を感じる。しかしこれは意識が意識でない部分を統治しながら考えているだけで、実際は無意識のほとんどが流動しながら意識というものをうごかしている。
 ものを見るというのは、視覚のなかにある対象を意識に持ちあげて逐一その動作を追うということであるが、そうでなくても見ているものは見ている。たとえば電車の窓の外でたえまなく流れてゆく景色の事物をいちいち意識に持ちあげてゆくことはできないしそうしているうちにつぎの景色がやってきてそれは見逃されることになる。しかしそうした窮屈な追われるような見方をしなくても視界の中には対象はたえず入ってきているのでありそれを見ているのはわたしのなかにある意識ではなくその外にあるわたしという存在である。
 夢に出てくる人物たちは、みな小学生の頃とか幼稚園の頃に親しかったひとたちで、最近出会ったり知り合ったひとではないことがふしぎだ。人間の心象風景というのは、幼少の頃に確立されてしまってそれ以上に変化することはありえないのかとも思えるが、一方でもうわたしはほんとうの意味でひとと出会ったり知り合ったりできないのではないかとも思える。わたしの意識の外側にある、もっと曖昧ながら存在の大きいわたしは、そのひとたちを認知するほどには機能していなくて、その機能はやはり子供の頃がいちばん機能していたのではないかとも思える。そうするといまわたしたちが見たり出会ったり知り合ったりしているそれはほんとうの意味でものやひとではなくて、夏目漱石が言ったFのような存在、具体や個物ではなく人間全般という観念に統合された記号のような存在なのではないかとも思える。命を脅かされたり好きになったりしたひとが例外的に夢にはっきりと現れるのはそれが個別のかえのきかない存在として認知しているからでありそういう場合にだけそれは正常に機能しているといえる。

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