6/14の日記

 ヴァレリーの評論を読んでいる。詩は伝達のための形式ではない、読まれるということを少しも戦略せずに書くことができない「誠実でない」人間が詩人である、作品とは読者が行為する場である、などなど、誤読を前提として翻訳しながら読んでいる。その周辺で、ここ数日考えていたことを、本の内容とは関係ないが、メモしておく。

まず詩や日記といった形式を選んでいる以上、ほんとうに自分ひとりで書くことはできない。自分ひとりの力だけで書くとかならず詩や日記にはならない。どれだけ形式から逃れたものを書こうとしても、それは形式をそこまで引き延ばしていることにしかならない。

それと

子どもは喩的な見方を決してしない。喩は目の前にあるものと目の前にないものを強引に同等の位置まで持ちあげるが、その間にはつよい体がある。その体にはかならず蓄積された時間がある。子どもにはそうした体はない。だから目の前のものを目の前のものとしてしか見ない。逆に喩は目の前のものが見えていなくても成立する。体に蓄積された時間に、目の前のすべてが収納されていくような見方を大人はだれもが少なからずしている。子どもの頃にみえていた世界のようにいまある世界をみようとするとき、そこには屈強な体があって、子どもの頃にみえていた世界でもって子どもの頃にみえていた世界をみようとしている。

それと

これは詩をつかって考えたいことなので散文にして考えてしまうことはなるべくしたくないが、あの山のようにあの山がみえることはあるのか、ということ。

何にせよ、読み手が積極的に行為するための装置としての詩というのは貞久秀紀の詩がすごくしっくりくる。あのように軽々と行為させてしまうのだからほんとうにすごいことをやっているとおもう。

あくまでわたしを含めたあなたのためのメモ。

(蝉の鳴く音で目が覚めた。窓を開けると水を撒く音になってベランダの下に青い作業服を着たおじさんがいた。窓を閉めるとまた蝉の音が鳴った。自転車が1日ごとにパンクするので、1日ごとに空気をいれている。明日もパンクするので空気をいれる。)

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