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テレビが観たくて沖縄から出たかった

安里和哲(90年生まれ 豊見城市出身)

​​ 沖縄から上京して13年になる。物心ついたときから東京に憧れていた。日本テレビとテレビ東京の番組が観たかったからだ。

 幼少期の僕が特に観たかったのは、1997年10月開始の『おはスタ』だ。『コロコロコミック』を愛読しているのに、『おはスタ』が観れないのは、子供ながらに歯がゆかった。その頃の沖縄のテレビチャンネルは、8チャン(フジテレビ系)と10チャン(TBS系)、あと9チャン(テレビ朝日系)だけだった。
 「『おはスタ』が観れるのなら、僕はもっと早起きするのに」と思いながら、寝ぼけ眼で『めざましテレビ』を観て、小学校へ急いだ。「おっはー」
(おーはー)のオリジナルも観たことがなく、慎吾ママでしか馴染みがない。「慎吾ママはパクリ」という疑念をずっと抱いていた。

 ちなみに9チャンができたのは1995年、僕が5歳のとき。それまで『ドラえもん』も『クレヨンしんちゃん』も10チャンで観ていたことを、うっすら覚えている。QAB開局は嬉しい事件だった。

 そんなふうにして僕は、小学生になるとすっかりテレビっ子になった。学校が終わるとまっすぐ家に帰り、夕方のテレビ番組を観ていた。『ウリナリ!!』『世界まる見え!』『マジカル頭脳パワー!!』『鉄腕!DASH!!』『伊東家の食卓』『マネーの虎』(以上、日本テレビ)や、『ASAYAN』(テレビ東京)は、夕方に観る番組だった。

 ドーバー海峡もポケビvsブラビも社交ダンスも、FBI捜査もビルの爆破解体も、マジカルバナナも夕方のダイニングで観た。モー娘。とケミストリーは、専業主婦の母が観ていて、たまに一緒に観た。ベタにゴマキが好きだった。そういえば『ポケモン』のアニメ放送もかなりタイムラグがあった。なので、沖縄に「ポケモンショック」を受けた子供は存在しない。

 『24時間テレビ』は、OTV(フジテレビ系列)で細切れに流され、パートによっては後日放送されていた。それでも母は、スーパーマーケットに設置された24時間テレビの募金箱にお金を入れていた。なにに共感してお金を入れていたんだろうか。『笑ってはいけない』も、土日に分けて放送していたと記憶している。『ガキ使』の通常放送はやってたのかな。高校生になると、フリートーク部分だけYouTubeで観ていた。

 東京に憧れたのは、テレビ以外にも理由があった。小学生の頃は、千葉にいる従兄弟たちが、毎夏沖縄に遊びに来た。そのたびに日本で今流行っている文化を持ってきた。ポケモンも遊戯王カードも、ベイブレードも、実際に遊ばせてくれたのは、いとこだった。東京に行けば、すべてが手に入ると、子供の頃は信じていた。僕にとって千葉はほぼ東京だった。僕が羨ましがると、いとこは「普段は東京なんて行かないよ」と言った。それでも、文化が海を超えるには、まだまだ時間がかかる時代だったのだ。だからずっと東京に焦がれていた。

 20歳を目前にして、念願の上京を果たした。しかし、テレビへの情熱は子供のときに比べればずっと落ちていた。当然子供の遊びには興味もなくなっていた。33歳になった今でもまだ、僕は『おはスタ』を観たことがない。

 今の沖縄の子供が、こういった形で東京に憧れることはあるんだろうか。Tverもあれば、ストリーミングサービスも充実していて、ほとんどの番組がいつでもどこでも観られる時代。テレビが観たくて東京に憧れる、なんてことは、もうきっとないんだろう。もし90年代に『おはスタ』を沖縄で観れたなら、僕は上京しなかったのかもしれない。U-NEXTで『ポケモン』を見漁る5歳の娘を見ながら、そんなことを思う。

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