映画・人間失格を観て
蜷川実花監督の『人間失格』を観た。
最初の感想は『もう一度観よう』だった。
小栗旬、太宰治贔屓にはもってこいの作品だ。どちらの良さも出ている本当にお腹いっぱい胸いっぱいの作品だ!本当に!
本当に久しぶりに待っていました!小栗旬!よ!
って感じだし、太宰美化しすぎじゃね?キザすぎじゃね?って思うけど、実際にこれだけモテていらしたのだから、そうなんだよな。と何度も突っ込んでは納得していた。本当に不思議な人だ。そしてそれが魅力なんだなぁ。太宰贔屓と言っても、そこには共感はないのだけど。不思議だよね。この世が~とか言っている人間なのに決まって恋愛に不自由していない。または、相手がいる。本当になんにもいない人間からすると、いるんかい!ってなる。でも、そういう人たちは決まって表現者なのだ。そこに集まる何かがあるのだろうか。
表現者故の孤独ももちろんある。その孤独に我のように吸い寄せられるのだろうか。そんな孤独がないやつはぼっちのままなのだろうか。
そう、この映画を観て感じていたのはこのダメ男っぷりに一人の人間を重ねてしまった自分がいること。もう数年も音信不通の人。仕事が忙しくなるからあんまり連絡取れないよと言って、本当に連絡が取れなくなった。その前にも何度か同じセリフを吐いていた。その度、本当にそうなるのではないかとビクビクしたが、それが実行される日が本当に来るとは。
そんな人間を思い出してしまうほど、小栗太宰の表情が重なった。こんな困った表情してたのかなぁ。仕事に対してはこんなだったのかもなぁ。など、この期に及んで、同上しつつ、仕方なくだったのか、など、どうも重なって重なって仕方なかった。なんなら、この映画観てこい!と言いたいくらいだった・笑
こんなに重なるっていうことは、やはりその人はダメ人間だったってことか。なんて冷静になってみたり、いろいろ気持ちが追い付いたような置いて行かれたような気になる作品だった。久しぶりに恋愛をしているようなふわふわしている感覚に陥った。しかも数日、そのふわふわは残った。エンタメに触れてここまで余韻として、感情が残るのは久しぶりの感覚だった。しかもこのふわふわした感覚は自分の中では大当たりのときのものだ。まだ、様々な刺激吸収する前の若いころに感じたもの。いろんなものを見すぎて、ハードルが上がっている今には、とても久しぶりな感覚。ずっと浸っていたい感覚はいつの間にか消える。そして、もう一度味わいに行きたくなる。麻薬のように。きっと久しぶりにBlu-rayなんかも買ってしまうのだろう。これが、小栗太宰じゃなかったら、どうなっていたのかはわからないが。でも彼じゃなきゃいけなかったんだろうな。だからこんなにも刺さっているんだろうな。どれかズレていたら刺さらなかったのだろう。そのあたりのセンスもさすがっていうことだ。
観終わって、女の子たちが「結局死んでないの?」なんて話していた。イケメンキャストの誰かのファンなのかもしれない。確かに太宰のことを知っていないと厳しい略し方だったりするかもなぁ。と思った。まぁ、それは、どの映画、ドラマ、作品にも言えるから仕方ないか。
個人的には若かりし三島由紀夫が太宰を非難するシーンが残っている。「死」を題材にしすぎる太宰を非難するのだが、それを言っている三島も最期は自殺だったよなぁ。と思いながら観ているとなんとも言えないものがあった。そこが真面目に一番印象深いシーンだった。大したことないシーンだろうが。あのシーンはなんだか重いものを感じてしまった。
事前に目に入った感想に斜陽、人間失格など読みたくなる。とあったが、本当に読みたくなる。「え、どれのこと言ってるの?」と探したくなる。読んでから行くもよし。観賞後すぐ読めるように持っていくのもよし。とにかく原作が欲しくなる。自分はむしろ斜陽日記の方が読みたくなった。なんなら最後の女・富栄の日記も読みたい。そんな方向に走りそうになるくらい、登場人物の生の言葉に触れたくなるのだった。
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