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いじめ対策を考える 2

いじめが起きた後に評価すべきことは

 では、いじめがあった時に何をどう評価すべきなのでしょうか。
いじめと思われることが起きた時に評価すべきことはいじめの有無ではなく「いじめ」なのです。
 いじめと思われる暴力等の行為があった時に調査すべきことは、なぜその行為が見過ごされて来たのかなのです。そこにどんな集団の影響があったかを知ることがなぜそんないじめが起きたかを解き明かすのです。
 例えば、大津市のいじめでは学級崩壊の状態であったことはいじめが生じさせた一因であったと考えられます。その時の学級や人間関係がどうであったかを調査することによって、なぜこのようないじめが起き、見過ごされたのかを知ることができるはずです。そして、それは新しく起きるいじめを防ぐ為に有効な情報となるでしょう。

クラス解体論について

 ここから先はいじめを減らす為には社会や学校はどう変わるべきかという大きな話です。
 いじめはなかなか入れ替えのきかない集団ほど起きやすくなります。これは分かりやすいでしょう。嫌ならその集団から離れればいいという場ではいじめは成立しにくいのです。
 なので、社会学者の内藤朝雄さんらはクラスを入れ替え可能な場にしてしまえばいじめは減ると提唱しています。クラス解体論です。
 中学校が大学のように各自が単位を取って授業を受けられるようにするのです。他の学校や学校以外でも自由に単位が取れるなどするとさらにいいでしょう。ずっと同じクラスにいるということはなくなります。


 これは確かに魅力的な話です。単にいじめが減るというだけでなく、子どもが人間関係をつくる場を増やせるということもありそうです。
 しかし、これだけの変革には長い時間がかかることは間違いないでしょう。
 そして、もう一つ見過ごせない点があります。それは地方の問題です。どの都道府県でも田舎の方に行けば、その中学校区のコミニティが全てという所は多くあります。子どもの人数も少なく、その一つの集団で中学卒業まで暮らしていくしかありません。そういった場所ではこのようなクラス解体論は不可能です。
 さらにいえば、そういった地方の田舎こそ、子ども達が減って地域の危機を迎えています。クラス解体論は確かに魅力的ですが、そういった地域にも意味のあるいじめ対策を考えていかなければなりません。

集団の一体感への強制を下げる

 クラスを解体しなくても集団の一体感を強制する雰囲気を減らすことはできるはずです。
 もうちょっと分かりやすくいいましょう。それは仲良くすることを強制しないことです。学校の中でみんな仲良くしましょうという指導をやめるということです。現在の学校では、全体で仲良くしようとすることを目的とした活動が多くあります。
 クラスには親友もいれば、ほとんど交流もない子、気が合わない子もいて当然です。全ての人と仲良くする必要はありません。同級生として一緒に活動する義務はありますが、友達になる必要はないのです。
 これは大人の職場と同じです。職場では組織の一員として皆でやっていくことが求められますが、それ以上のつきあいは個人の自由です。会社外のつきあいを強要するよな会社は今の社会では非難されます。変にプライベートで仲良くすることを強要してはトラブルになりかねません。
 学校も同じです。無理に仲良くしようとするのではなく、仲良くしたい人と仲良くする。それとは別に同じクラスの一員としてちゃんとやっていく。それで充分なのです。
  

いじめ認知件数の増加

 今のいじめ対策として見逃せない点があります。それはここ数年のいじめ認知件数の急上昇です。
 特に小学校で顕著で、数年前まで五千件程度だったいじめ件数がここ一、二年では三万件を超えています。これはもちろんいじめが増えたというより、発見されたいじめが増えたと考えるべきでしょう。
 今までは見過ごしてきたいじめの芽もしっかり把握して対応する。この姿勢は一見正しいように見えます。しかし、こういった早期発見、早期予防には危うさもあるのです。
 一例として、また大津の話を出します。
 大津のいじめ事件の大津市の市長はいじめについての本を出しているのですが、その中で自分がいじめの講演をするとその学校でプロレスごっこがなくなると書いていました。
 確かにプロレスごっこといわれるふざけ合いは外から見てるとふざけてるのかいじめなのかが分かりにくく、いじめの温床となっているのは事実です。
 しかし、ふざけてじゃれる男子がいない学校が健全なのだろうかと疑問にも思います。
 私の定義した「いじめ」は、そういったふざけ合いの空気がそれ以上の一方的な暴力へと変化していくことを見過ごしてしまうことでした。だからといって、その芽となるふざけ合いをなくそう、そういったものも問題としてカウントしようといってしまうと違うように思えます。
 子どもがふざけ合うことのない学校が素敵な場といえるでしょうか。小さな問題の芽をチェックして潰していってもうまくはいきません。大事なのは小さな芽が暴走しないようにすることなのです。

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