奈良と祈りと物語②
奈良と物語
正倉院という物語
今年も正倉院展が終わりました。
コロナ以来完全予約制になり、人数制限があるので、以前のように奈良国立博物館をとりまく行列は八重にとぐろを巻く…というようなことはなくなりましたが、それでもこんなにたくさんの方々がどこから湧いてきたのだろうと思う行列です。
私もできうるかぎり、毎年拝見していますが、ことしは本当に見ごたえのある素晴らしい展覧会でした。
ご存知の通り、正倉院展に出陳される御品は毎年変わります。一度お出ましになられた品は、最低でも10年ぐらいはお休みになられるので、じぶんの残りの人生で、もう二度とお出会いできないものもたくさんあるのです。
琵琶や鏡だけでもたくさんの種類があって、今回お出ましになられたお品はとても華やかな、素人目にも宝物らしい宝物のようにみえました。
見た目の美しさ、華やかさ、1200年以上むかしのものが、これほどよい状態で保存されている驚き。
骨董価値、稀少価値、学術的価値。それらは比類なき世界に誇れる日本の宝ものです。
それは疑うべくないものですが、わたしが今回の正倉院展に心を激しく揺さぶられたのは、西山厚先生の正倉院展についての講演を聴いたからです。
西山厚先生は、帝塚山大学の客員教授、半蔵門ミュージアム館長、奈良国立博物館名誉館員などを歴任されて、精力的に奈良についての講演をされている先生なので、ご存知のかたも多いと思います。
どの講演会にうかがっても、会場は常にいっぱいです。
私がはじめて西山先生の著書にふれたのは、「仏教発見!」でした。
奈良国立博物館の地下の書籍コーナーで偶然手にとり、まえがきを読んだときに涙がとまらなくなったことを今でも思い出します。
ついこないだのように思えるのですが、あとがきには2016年10月とあるので、7年も前のことなのですね。
そして、この高著が私を奈良に深く縁づけてくださったのかもしれないと今思いました。
奈良と仏教と物語
西山先生は僧侶ではありませんので、仏典に基づいた説教をされたり、人生をいかに生きるかを説いて下さるわけではありません。
でも、ひたすら仏教が好きで、お釈迦様が好きで、好きで好きでたまらないから、そのあふれでる仏教愛を言葉にされている…という感じです。
ああ、そんな風に仏教に触れていいんだというのが、私の感慨でした。
信心するというわけでもなく、帰依するというような覚悟がいることでもなく、ただ好きでいていいんですね…という感じ。
色々な宗教にまつわる問題がおこるたび、宗教に関することは人と安易に分かち合うことが難しいのだなぁと臆する気持ちがあります。
たとえば、イスラム教徒には厳しい戒律があって、それを信じることは戒律を守ることとイコールであって、好き…だなんて、そんな能天気なことを言うことじたいが、無礼な、神を冒涜することになるのではないかという恐れがあります。
でも仏教は、そんな厳しいものではないと思うし思いたい。
宗派とか、仏典のなにが正統とかそういうものはすべて抜きにして、仏教的な感覚が好き…といっていいのでしょうか。
そういう感覚のものにとって、奈良はあふれるほどに仏教的な物語にあふれている街です。
1000年前のひとも悩み、悲しみ、仏教に救いを求めた。
それと同じような悩みをもち、もがく私が同じ仏様に出会い、安らぎをえることができる。
そういう投影のしかたを、西山先生の物語で「ああそれでいいんですね」と教えていただいている気がします。
物語ることの力
なにか素晴らしいものを前にしたとき、その素晴らしさはもちろんそのものの力として感じることはできます。
でも、その背後にある物語を知ったときに、そのものと自分とが有機的に結び付けられ、直接的に訴えかけられるような気がします。
たとえば、正倉院展についての講演で、西山先生はこんなお話を物語って下さいました。
その光明皇后の悲しみに想いを馳せるとき、宝物の美しさはより一層、わたしの胸に迫ります。
それは物語の力です。
患者さんが物語るときにも同じ力が私に作用します。
哀しみ、もののあわれ、ものの儚さ。
時代はかわっても、ひとの悩みは尽きることなく、思った通りにすべて想いが叶う世にはなりません。
それでも何百年も、ひとは物語りつづけ、祈り続けました。
それを五感で感じる場として、奈良は類まれな地です。
私は施術が終わって、これから興福寺に、東大寺に、春日大社に行くんです…と仰る患者さんに、いつも「神様仏様のご加護がありますように」と送り出し、おまかせできることを、なにより有難いことと思っています。
どうぞ、奈良に物語を感じにいらして下さいますように。
最後まで読んでくださって有難うございます。読んでくださる方がいらっしゃる方がいることが大変励みになります。また時々読みに来ていただけて、なにかのお役に立てることを見つけて頂けたら、これ以上の喜びはありません。