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2022年、この半年のこと

何かを書き殴りたくて、久しぶりにnoteに投稿してみようと思った。

この半年、色々なことがありすぎた。

僕は41歳、恥ずかしながら未だに実家に暮らしている。未婚。小さな出版社でお給料はたくさんもらえない、メンタル面に不安を抱えていることもあり今もそれが継続している。

そして今年のお正月休みの終わり、僕は布団に入りスマホをいじりながら明日から仕事はじめだ、と思っているところに、父の部屋から助けを呼ぶ大声。

駆けつけると親父のまわりには血まみれのティッシュが散乱。かなりの吐血。

急いで救急車を呼ぶ。

時刻は深夜0時。

そのまま隣町の大きな病院に運ばれた。結婚して離れている兄貴も駆けつけた。僕は兄貴にその後をまかせ、タクシーで帰宅。

時刻は深夜3時。

眠れぬまま朝になり仕事にいくが何も手につかない。その日の午後、早くも病院から呼ばれ行くと、父の片方の肺が真っ白になっているとのこと。それまでも父は市内の病院に肺の調子が悪く通院していたのだが、一気に悪化したのだという。そして、通っていた病院へ転院することに。

僕、兄、母と病院に駆けつけており、転院の際、

『救急車には母さんが乗ったほうがいいだろ?』

と親父に声をかけると、お前でいいよ、とのこと。最終的にはこれが僕と親父の最後の会話となる。

転院先に向かう救急車の中、父にかける言葉が見つからない。僕は結局一言も声をかけられず、父の顔をみていると泣いていた。

転院先に着くと、すぐ先生から病状の話。正直に言って覚悟してください、とのことだった。でも言われなくてもなんとなくわかっていた。テレビでしかみたことのないシチュエーションだ、と僕はそんなことを思っていた。

そのまま帰宅し、翌日、忘れもしない東京に雪が降った日だ。僕は仕事で大井町に向かう京浜東北線に乗っていた。そこに病院からの電話。

『家族に話さなければならないことがある、今日17時までに来てほしい』

その時時刻は14時半。仕事をして即向かってもギリギリ。兄と母に電話をして向かわせ、僕も大慌てでひと仕事終えて病院へ。

心ここにあらずで中央線で電車を乗り換える国分寺まで向かう。病院に着くともう兄と母で先生と話がついており、父は人工呼吸器をつけないと厳しい、それに家族の同意が必要ということだった。

兄貴と母と3人で泣いた。色々なことが3日間の間に起きすぎた。雪が降るとても寒い日にそんな決断をしなければならないなんて、と僕は思った。

その頃、コロナ感染者が1万人を超える状況で面会なんてできなかった。そのまま2週間が何の音沙汰もなく過ぎた。

そしてまた病院から家族が呼ばれる。人工呼吸器というものは2週間以上口から管を通すことができないものらしく、喉を切開し、取り付けならなければならないという。それにも家族の同意が必要とのことだったが、父の喉を切開すること以外に最早選択肢がなく、ほぼ強制的な同意だった。

当時はもうそこまで頭が回らなかったのだけど、今なら色んなことを想像する。家族もいない中、先生から喉を切って人工呼吸器をつけます、と言われた時、臆病すぎる性格の親父がどれほど怖かったか、死を覚悟したか、それでも生きたいと思ったか。それを考えると今でも僕は親父に謝ることしかできない。怖い思いをさせて本当に悪かったと。

そのまま時がまた過ぎ、1月の最後の土曜日、僕はいつも通院している病院に薬をもらいに行き、お昼に帰宅をする。

ストーブの前で昼寝をしている母。

ただいま、と声をかけるが起きない。寝ているのだろう。もう一度声をかける。起きない。もう一度。起きない。明らかにおかしい。

身体をゆするが起きない。何度もゆすって、大声で声をかけてようやく意識が戻るが、吐きそうというので近くのゴミ箱を口元へ。

口からでてきたものは、血。はじめて本当のパニックに陥った。親父ももういつどうなってもおかしくないくらい危ないというのに。

即救急車を呼び、親父が最初に運ばれた病院へまた行くことになった。僕の頭の中でずっと反芻していたのは、『俺、何か悪いことしたか?』ということだった。

結局母は、出血性胃潰瘍で血がかなり減っており輸血が必要、また入院も必要ということだった。後日の検査で最終的に癌の検査などもしたが、問題はなく大事に至らなかったのが幸いだった。

そして週明けの火曜日、会社に新人が入り、業界の仕組みなどを一通り教え終わったところで、携帯電話が鳴った。親父の病院。

ああ、もうダメなんだな、と直感でわかった。

電話にでると、危険な状況だからすぐ病院に来てくれとのこと。僕はそんな時でもまた、ああドラマで何度もみたシチュエーションだな、なんて思っていた。

病院に着く。兄貴の奥さんがいて、一緒に病棟へ行くと兄がいる。兄貴の表情ですべてがわかった。もう逝ってしまった、という顔をしている。病室に向かうのが怖い。どんな気持ちで親父の顔をみればいいのか。でも息子として見なければならない。

親父はすべてが終わって穏やかな表情になっていた。でももう動かない。呼吸で胸が動くこともない。そんな親父をみて、僕は泣いた。正直って、ここ10年近く、あまり良い関係ではなかった。だから親父が死んだ時、はたして俺は泣くのか?なんてたまに思ったりしていたのだけど、泣いた。たぶん僕が親父には少しでも楽しい人生を送って欲しいと思っていたからだ。いつも世の中や他人を憂いていたから。

人の死は突然やってくる、なんて色んなところでたまに聞いていたけど、突然やってくるにはあまりにも辛すぎた。でもそれに不条理を感じているわけでもない。そんなものなのだろうと思う。不条理だ、なんて思っていたらいつまでも前を向くことができない。

僕が今日、なんで今年あったことを赤裸々に書き殴ったかといえば、僕が弱すぎる人間だからだ。兄貴や母が見たら何してんだよって怒られるだろうと思う。

でも弱すぎる人間には、一人で抱え込むことができない。どこかで発散しないと潰れてしまう。

もう一つ付け加えると、きっと世の中には、今年はじめの自分と同じような状況の人はたくさんいるのだろう。親や家族が重い病気、その他心配事で眠れないような日々が続いている人。でも通勤電車や街の中、そんなことを表に出す人はいない。僕もそうだった。表向きの顔はいつもと同じだったけれど、心の中はどうなるかわからなくて、不安が溢れてしょうがなくてどうしようもなかった。

ひとつ言えるのは、辛いことを抱えてるのは世の中自分だけではないということだ。今回自分が経験したことを踏まえて、身に沁みた。世の中にはその時自分だけと思っている不安を経験した人は必ずいる。そういった人たちやコミュニティ、なんでも頼ればいい。

なんだか最後は締まりがとても悪くなってしまったけど、今年のことを発散したかったこと、ちょっと伝えたいことを書きたかった。


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